
縁結びの最強神社・敦賀金崎宮
別名「恋の宮」と呼ばれている敦賀金崎宮。織田信長が危機一髪だった金ケ崎城跡がある山の麓にある神社さん。この神社のご祭神が尊良親王。
「たかなが親王こそは、後醍醐天皇の次期皇太子。頭も切れるしイケメンである」と言われていたエリート。しかし、時代は武家社会に日本国家が転換していた鎌倉時代末期。鎌倉幕府からの横槍が入り、尊良親王は天皇には成れず。
落ち込んでしまった尊良親王を、なんとか救おうと親友の二条為冬が遊びに誘ったわけですね。下鴨神社からの帰り道、いい女の子をみそめたのですが、既に婚約を交わしている身のお方。
姫君ですから、当時は周りからこのお方と婚約なされ、と言われればそれに従って、と言うのが普通の世。婚約者がいるのも知らずに求愛して、それに悩み苦しむ姫をご覧になり「自分が元で愛する人を苦しめたしまった」と身を引くのです。
皇太子になれず落ち込んでいたけれど、好きな女性ができて、と思ったのもつかの間、再びふさぎ込む尊良親王。しかし、親王は人望があったので、周りが画策したのでしょう。「婚約者が婚約を取りやめた」と朗報が届くんですね。
求婚した尊良親王。「たちぬべき 浮名をかさねておもわずは かぜに煙の なびかざらめや」けむりが風になびくように私の心もあなたになびいておりました、と返事が返ってきてめでたく結ばれたのです。『太平記』から
「花換えましょう」
ご祭神にあやかって、恋の縁をとりもつお祭りが「花換まつり」です、桜の名所としても知られる敦賀金崎宮、さくら咲くシーズンにお祭りは開催されます。
悲しい物語
敦賀金崎宮のご祭神は後醍醐天皇の第一皇子・尊良親王と第六皇子の恒良親王。
延元元/1336年4月に足利尊氏が博多を発して京都に攻め込みます。それを神戸で向かえ撃ったのが楠正成、湊川の合戦。水軍にやられて敗戦、天皇側は窮地に。後醍醐天皇は新田義貞に北陸道を固め官軍の再興を命じたのです。
尊良親王と恒良親王、そして新田義貞は金ケ崎城へ。一方、足利尊氏は高師泰を総大将に、陸と海から金ケ崎城に攻め入ります。しかし、なかなか城は落ちず。そこで兵糧攻めの長期作戦を。
その作戦がまんまと的中、新田義貞はこのままでは餓死寸前と、夜城を出て気比神宮へと援護と食べ物を頼みに。しかし、足利軍はここぞとばかりの総攻撃をかけ、城は陥落。城内の新田越後守義顕は尊良親王の御前にひざまづき自刄。そして親王もその劔をもって自死、27歳の生涯を封じられたのです。
気比神宮の大宮司・気比氏治、武田与一、里見義氏、藤原行房ほか城に残っていた将兵ともども321人が尊良親王に殉じたのです。
まだ子どもの恒良親王は気比神宮の気比斎晴が小舟で脱出させたのです。しかし遂には足利軍に捕虜となり「なぜ新田義貞らの首がないのか」と問われ、火葬にしたと嘘を伝えます。その後、新田義貞の生存がわかり、恒良親王は足利軍に毒殺され、15歳の生涯を閉じられます。『社伝』から
金崎宮には尊良親王に殉じて自刄した321人を祭神とする絹掛神社があります。籠城五ケ月食料も尽き果てて、なおも数十倍の賊軍に勇猛果敢に挑んだ兵士たち。「日本武道の華」と謳われています。
敦賀金崎宮 〒914-0072 福井県敦賀市金ケ崎町1−4
開門時間/9時00分~17時00分
