
通りゃんせ、通りゃんせ。
ここはどこの細道じゃ、天神さまの細道じゃ。この歌を子どもの頃に歌わなかった日本人の子どもはいないよねぇ。こわいながらも 通りゃんせ、通りゃんせ、は何を意味しているのか?
「こわいもん」の正体を子どもに教えるのがこの歌の目的。そう日本には目には見えないもの、執着や怨念というものが存在する。それは人間では起こしきれないような力を持っていて悪さもするし、助けてもくれる。
雷さまにおへそを取られるよ、河童の三平におへそ取られるよ、って子どもん頃聴いた人もいる。空や川は、穏やかな時と過激な時があるんだょと、自然は誰にも優しく雄大だけれど時には悪さをする、それを子どもに理解させてるんだよね。
天神さまは「学業の神さん」と言われているから、子どもの頃に誰しも連れて行かれ牛を撫でてる。でもなんで?
祟りじゃぁ、人を卑しめるとそうなるんだよ
右大臣にまで成られた菅原道真公。延喜元年/901年それを嫉妬した藤原時平の讒言によって、太宰権帥に左遷。藤原時平は左大臣として国の頂点に立った方、でも間違った。「天神さま」に菅原道真公がなられたのは延喜3/903年に左遷された太宰府の地で逝去された後。
道真公が没してすぐに、藤原時平は39歳で死去、時平さまにはなれなかった。そして時平の讒言に加担した人々が、なんと清涼殿に落ちた雷によって死亡。清涼殿の落雷を目の前でご覧になられた天皇陛下は、その驚きで寝込んでしまう事態に。
清涼殿といえば、今でいう国会議事堂のような国の最も重要な施設。そこに雷が落ちたということで京都の街中では、これは菅原道真公の祟りではないかと。
日本人の呪力
祟りをおそれ恐怖におののいた関係者は、京都の洛中に北野天満宮を造営。道真公を御霊としておまつりしたのです。その後に「学問の神さま」「火雷天神さま」と道真公は神さんと呼ばれるようになったんですね。
日本では左と右では左側が上で右が下となります。ですから左が社長なら右は副社長。宇多天皇のもと、左は藤原時平で右は菅原道真なんですね。ただ宇多天皇は道真贔屓で、それに不満を持っていた役人もいたとか。
そして宇多天皇の次の天皇を誰にするか、藤原家は代々天皇家と婚姻関係を持ち、それによってのし上がってきた家柄。もちろん時平は妹の藤原穏子を醍醐天皇に入内させ、生まれた皇子・保明親王を立太子にまでしている。道真公の左遷の罪状は、宇多天皇の次の醍醐天皇を良しとせずに斉世親王・醍醐天皇の弟を次の天皇と画策した、と。
どれにしようかなぁ、天神さまの言うとおり。
周りの目を気にする日本人は、自分はこっちだと思っていても大勢があっちならこっちと言えない。そんな時、ふと言葉に出るのが「どれにしようかな」で天神さまが決めた方を選ぶと。で、こっちになった、嬉しい。
さだまさしさんの歌「飛梅」で太宰府天満宮の心字池に架かる三つの赤い橋がどんな橋なのか、不思議で九州に旅するたびに太宰府へ。「飛梅」のお話は、通っていた高校の横には道真公の「飛松」があり、歌にも秀でていた道真公は梅や松や楓を好み、それを歌に詠んでいたと、高校の古典の先生はいやほど教えてくれた☺️
この三つの赤い橋、カーブしている太鼓橋で、こんな橋がかかっている神社さんはあまりない。広島の嚴嶋神社さん(神さまだけで渡れません)、大阪の住吉大社さん、神奈川の鶴岡八幡宮さんが一つだけの太鼓橋、三つの太鼓橋は山口の錦帯橋くらい。太宰府天満宮さんの太鼓橋は黒田長政の寄進と言われています。
あなたは彼女と橋を渡る勇気はある
延喜五/905年に道真公を慕い太宰府天満宮を創建した味酒安行・うまさけ の やすゆきが造作したと言われる心字池。こころの文字のカタチに成った池なので「しんじいけ」と呼ばれています。私が神社好きになった理由が、なんでこんなにも菅原道真公は人々に愛されていたのか、というのが発端。
道真公が由来の地名が西日本各地にある。それだけ道真公を推していた人びとが各地にいたということですね。男の嫉妬とはこわいもんで、えらい目にあわされてしまったと。
この橋、まず最初の手前が「過去」で橋を渡る時は、過去だから後ろを振り返らないこと。二つ目の橋が「現在」で立ち止まることはだめ。そして三つ目が「未来」渡る時につまづかない、もちろん振り向かない。こうして邪気をふるい落としてから、天神さまにお参りしてすると。
2026年太宰府天満宮さんは社殿は解体工事のために囲われています。でも、社殿の奥にも行けますので行ってみてくださいね。
太宰府天満宮〒818-0117 福岡県太宰府市宰府4丁目7−1
開門時間/ 6時00分~19時30分
