覇権国家にも喧嘩を売った真のリーダー 太閤秀吉の豊国神社@京都東山

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覇権国家にも喧嘩を売った真のリーダー 太閤秀吉@京都東山豊国神社

「敵の逃げ道を作ってから攻めよ」

「上様、本能寺にて討死!」それを聴いた豊臣秀吉公は中国大返しで岡山、兵庫の姫路城から京都山崎へと進軍。山崎の戦いで敗れた明智光秀は長岡京勝竜寺城へと籠城。この城は娘・明智たまこが幸せな新婚時代を過ごした場所。細川ガラシャと呼ばれ強い女性のイメージがありますが、歴史の文献を読んでみるとマスコミなどが作り上げたイメージとも言えます。覇権国家にも喧嘩を売った真のリーダー 太閤秀吉@京都東山豊国神社

明智光秀は細川忠興に「一緒に戦ってくれ」と。彼は細川たまこ19歳)を離縁し、山深い城へと幽閉します、つまりは彼女を守りたいがため。これにより細川忠興は豊臣秀吉への誠意を明らかにしたとも言えます。謀反人の娘であれば殺されても当然の世で、明智たまこは、細川忠興によって守られたと言えます。

秀吉公はなんとこの籠城している勝竜寺城の包囲を解き、明智軍を自由にさせます。これには諸説あり、細川忠興が豊臣側についたため、また織田信長のすすめで明智たまこを勝竜寺城主・細川忠興に輿入れさせたほどの城であったためとも言われています。明智光秀は豊臣軍がいなくなった城から坂本城へと遁走します。しかし、一旗あげようとする農民や武士の【落ち武者狩り】に討たれて、明智光秀無念の最期をむかえます、天正10/1582年。覇権国家にも喧嘩を売った真のリーダー太閤秀吉@京都東山豊国神社

謀反人の娘・細川ガラシャこと明智たまこは秀吉公のとりなしもあって、細川家の大坂屋敷へと移されています。こうした心遣いも秀吉公の人から良く言われるところかもしれません。人のことを気にかけてあげる、これ。覇権国家にも喧嘩を売った真のリーダー太閤秀吉@京都東山豊国神社

細川ガラシャと呼ばれたのは秀吉の九州平定の後ですから、この本能寺の変のだいぶ後のお話。一説にはキリスト教信者のマスコミ人が、たまこと言わずガラシャ、そして西洋文化に精通した強い女性像を作りだしたと。またガラシャと呼ぶと西洋人?混血といったイメージ操作もあったとも言われています。まぁ、こんな話、その時代を知っている人など居ないので、よくある話し。覇権国家にも喧嘩を売った真のリーダー太閤秀吉@京都東山豊国神社

籠城している城への戦の囲みをといたことで豊臣秀吉軍は織田信長の仇を、戦わずしてえたと言われています。「戦わずして勝つ」ために、秀吉公は兵糧攻めや水攻めも積極的に行って、兵力を温存する戦法をとっています。信長からは「はげねずみ」「さる」と言われた何も考えない攻め入るだけの人かと思いきや意外と策士。干し殺しの三木城、水攻めの備中高松城は、戦わずに勝つ戦法がまんまとハマった。

覇権国家にも喧嘩を売った真のリーダー 太閤秀吉@京都東山豊国神社

織田家一の重臣・柴田勝家を天正11/1583年に【賤ヶ岳の戦い】で倒した秀吉公は、大坂城の築城を始め、信長の後継であることを天下にアピール。その後、長宗我部元親を下して四国を平定。関白に就任、翌年に正親町天皇から【豊臣】姓を賜り、朝廷の最高職・太政大臣に就いて錦の御旗まで手に入れ天下人に。覇権国家にも喧嘩を売った真のリーダー 太閤秀吉@京都東山豊国神社

全国統一を成し遂げた豊臣秀吉

日本人奴隷売買に怒り大国スペインに喧嘩を売ったリーダー太閤秀吉のこの後成し遂げた政策が、江戸時代以降に続いたりします。これは日本全土の社会を戦国時代から【天下泰平】にするための構造改革です。こうしたリーダーとして国のため、自分の後の世の中のために改革に動いた秀吉公。

大名といえば石高ですが【太閤検地】によって決められたこと。その後の政策は農民から武器である刀、弓、槍、鉄砲を没収する【刀狩】を実施、一揆を防ぎ耕作に農民は専念させること、兵農分離で生産性を向上させようと。

キリスト教保護政策をしていた織田信長を継承していた秀吉公。しかし長崎がイエズス会の所領となり軍事要塞化されて、港からはキリスト教信者でない日本人は奴隷として海外へ販売する悪行を知り激怒。天正15/1587年に【バテレン追放令】を実施。バテレンはポルトガル語で神父の意味。

信長公は宣教師から黒人奴隷を献上され、喜んでいました、側用人にもしています。このことで、奴隷制度を日本の国にも定着させようと宣教師たちは考えていたんですね。絵屏風などには信長が黒人を従える姿がありますが、違和感をいなめません。外タレが黒人のSPをつけるのも、日本人の感覚では可笑しく見えるのです、あれと一緒です。そして表向きは世界平和平等なんて言っておきながら、これ黒人差別じゃんと日本人は言います。

また土佐沖で座礁したスペイン船サン・フェリペ号の乗組員が「スペインは領土拡張に宣教師を利用している、やがて日本もスペインが統治する」と証言したこと、またスペイン宣教師が島原や九州の女性、女の子を奴隷として他国へ売っていたと言う事実を知り激怒した秀吉公。覇権国家にも喧嘩を売った真のリーダー太閤秀吉@京都東山豊国神社

当時世界の覇権国家だったスペイン。その植民地だったフィリピンのスペイン政府へ、抗議と言うより攻め込むぞとまで脅しをかけ、覇権国家へ宣戦布告に近いものまでしていた秀吉公。そこまで強気に出たのは、世界中で銃器を一番所有していたのが当時の日本だからです。喧嘩を売られたスペイン帝国は、その後貢物を持って秀吉公に謁見、取り入ろうと努力します。つまりは自分たちが植民地にしたフィリピンなどアジア諸国を手放したくないから。

日本国、そしてその民を守るとはどう言うことか? 奴隷として日本人が売られているのをよしとするのか? それをNo! と世界に言える日本の初めてのリーダーだったわけですね。奴隷ではありませんが、北朝鮮に拉致された日本人を奪還できずに数十年、現代日本には真のリーダーはおられるのでしょうか?覇権国家にも喧嘩を売った真のリーダー 太閤秀吉@京都東山豊国神社

秀吉公が生んだ華麗な桃山文化

いま日本の春といえばお花見。これを盛大に行ったのが秀吉公。ソメイヨシノの吉野の山から、わざわざ桜の木を京都醍醐寺に移植させて、慶長3/1598年の「醍醐の花見」。

秀吉公が流行させたものの一つに【茶の湯】。天正15/1587年に秀吉が北野天満宮境内で開催した北野の大茶会は1000人以上が参加。それを仕切ったのが堺の千利休。秀吉公と千利休がお茶文化を開花させたと言ってもいいでしょう。

また豪華絢爛な桃山文化を生んだのも秀吉公。なぜ桃山? と言われますが、秀吉が晩年拠点を構えた伏見城に桃ノ木が植えられ桃の花が山のように咲いていたことからと言われています。太閤さんは花好きでもあったわけです。覇権国家にも喧嘩を売った真のリーダー 太閤秀吉@京都東山豊国神社

「人たらし」の異名を持つ天才的な人心掌握術

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人がよく比較されますが、この中で人気ナンバーワンは太閤秀吉公でしょう。波乱万丈の生涯と、人生をお花見や茶の湯、そして歌舞伎と楽しんだ磊落さ、それが周りの人を魅了する。それほど日本で愛されている豊臣秀吉公を祀るのが「豊国神社」。覇権国家にも喧嘩を売った真のリーダー 太閤秀吉@京都東山豊国神社

総本社は京都市にあります。京都のパワースポットとして、出世開運・良縁成就の神様として崇敬されています。京都の碁盤の目の右下に位置しています。周りの観光スポットとしては京都国立博物館と三十三間堂さんがあります。

境内には北政所ねね様を祀る貞照神社も鎮座。伏見城遺構の国宝の唐門がそびえます。本殿正面に建つ四脚唐門。南禅寺金地院から移築。伏見城の遺構と伝えられ、欄間や扉などに豪華な装飾が施されています。飛地境内の阿弥陀ヶ峯には秀吉公の墓所豊国廟があります。写真は高野山奥の院にある豊臣家のお墓です。「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」覇権国家にも喧嘩を売った真のリーダー 太閤秀吉@京都東山豊国神社

豊国神社/とよくにじんじゃ 京都市東山区大和大路正面茶屋町
アクセス/京阪電車「七条」下車、徒歩約10分 京都市バス「博物館三十三間堂前」下車、徒歩約5分

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