百済という国が朝鮮半島にあった
朝鮮半島に任那という日本国の一部があったことは、歴史を学んだ人なら当たり前。だけど、日本には朝鮮半島に対する過剰反応はある。また半島や大陸の教育が、時の権力者の思うがまんまに書き換えられ「日本憎し」と言っていれば政治は安定😄って笑ってしまえるのも事実。
だけど、反日教育を受けた方々がこの日本国で悪をばらまくのも事実。ロシア人であると豪語する西洋人である?Kim金さんは、日本人を拉致して返さない。これどこの国においても悪行ですね。自分の娘をさらわれて、黙って戦わない人はいないですよね。
朝鮮半島は半島全てが一つの国として統一された歴史がなく、常に戦闘態勢の国境紛争が絶えない場所です。日本に仏教が伝わったとされる時代には、百済から来られた仏教を教える方々と新羅から来られた同じような方々がいらした。そしてこともあろうか、他人さまの国の中でも争われた。
朝鮮半島百済の王さまのための神社
そのために時の日本政府は百済寺と新羅寺を分けたりもした。おんなじ仏教だけれど。宗教とはこの争いの歴史です。同じキリスト教でもポルトガル、オランダからきたキリスト教、スペインから来たキリスト教とは、これまた日本で喧嘩する。
日本における神社とは他国で言う宗教ではありません
「宗教」と世界で言うところの信仰と、日本での二礼二拍手一礼の神社参拝とは基が違う気がします。もともと日本人は天皇陛下を頂点とした家族。その天皇さまや一族のために功を成した方々をおまつりする場所があった。それがお墓という形態を取らずに神社という形になった。
社の鳥居マークを描くと妙なことをされないと言うのも、大切なお方の住まわれる場所だから。人としての形態は亡くなっても、魂はやどると言うのが日本での考え方、その御霊の場所が神社や磐などの自然となった。それが証拠にその神社のご祭神をみれば分かります。菅原道眞公の天神さん、楠木正成公の楠公さん、和気清麻呂公の和気神社。
朝鮮半島で百済は弱い立場であったようです。それで何度か日本の天皇さまのところへ、助けてくれと願い出て来ます。日本では判官びいきと言って、弱いものの立場を応援すると言う考え方が根強くあります。弱い者いじめをするモノを非常に嫌います。
そうした伝記を物語としても残していますから、菊水作戦の楠木正成はアメリカ占領軍から排除されましたね。強いものは何をしても良い、アメリカでジャブジャブ余った小麦、とうもろこし、油を日本に買わせれば良い、今でもそうですね。だから先進国ではガン患者は減少しているのに、日本だけがガンが増えている、おかしくないですか?
アメリカさんによって日本はグルテン漬、油まみれにされ、挙げ句の果てに病気になればアメリカさまの薬を打て買え、ですからね。良識ある医師の友人は「アメリカのクソリ、いや薬のモルモットなんだよ。日本人はラット、ほんとバカにしてるよ」と。GHQ政策と日教組の隠蔽体質で、子供の間ににいじめという行為が表に出ずに、隠れて行われます。ただそれが世にしらしめられた時には、どんな時代も加害者はいく場がありません。自国の教育が正しいなんて、中国人も朝鮮人も、日本人も思わないことです。
飛鳥時代の斉明 7/660年に中国、新羅連合軍に滅ぼされ滅亡した百済の古代朝鮮の国ですが、その国王が渡来して住み着いたのがこの地と言われています。その百済王の祖霊を祀る神社が【百濟王神社/くだらおうじんじゃ】です。ただこの神社の横には広大な更地がありますが、ここが百済寺の所領だったようですから、百済のお寺さんの方に国王が祀られたのが先なのでしょう。また元々は牛頭天王を祀った神社であったことから、何らかの理由で百済寺がなくなり、そこに祀られていた百済の王を神社に移したと言う見方の方が合点がいきます。
北海道では昔は米を栽培できなかった
今では農業技術の発達で、雪のふる地域でも稲が育つようになりました。北海道でお米を栽培するようになったのは最近です。1873年に中山久蔵さんによって北海道で米作りが始まり、1980年代に品質向上を目指し1988年に「きらら397」がデビュー。それから北海道での米作りは盛んになったのです。2011年には「ゆめぴりか」と「ななつぼし」が、北海道米初の食味ランキング最高位の「特A」を獲得。
一千年前の世の中では、農産物が豊富なのは暖かい地域です。そのため、お米が栽培できない地域であった朝鮮半島から食料を求めて南下した先が日本です。また中国からの迫害で朝鮮半島から逃げる人もいた。こうして日本に庇護を求めて来た王さまもいたくらいですから。大和朝廷時代に、彼らは役職につき、活躍して日本民族に同化していった。
百済の民族の中には鉱石を発掘する技術に長けた者がいて、彼らが日本の金銀銅の採掘を手がけたと言われています。資源がない国・日本と言われていますが、それは今の時代のエネルギーになる資源に乏しい国であって、江戸時代まではそうではなかった。奈良の大仏さまを銅で造り、金箔にする技術は、当時の世界では真似できなかった最先端技術とも呼ばれています。銅の精錬などの技術で儲けたのが財閥・住友家ですね。そのお金で住友家は大阪住吉さんに数多くの灯篭を寄付していますね。
百済の宗家は大仏建立の詔を聴き、東北地方で採掘した黄金900両を聖武天皇に献上しています。その恩賞として天皇からあたえられた土地が河内国、現在の枚方市です。百済王の本拠地は大阪の生野区周辺でしたが、この地をさずかったと言われています。枚方市は平安京時代は京都の食糧庫と呼ばれるくらい肥沃で農産物が豊富な地域でした。
自然の四季で進む農作業
農業と四季は切っても切り離せません。また天からの雨水も肥沃な大地には欠かせません。枚方一帯は淀川など川の恩恵がありますから、雨乞いなどはあまり必要がない土地柄でしょうが。農業に生きる人の拠り所としてこの地に社が建てられて祀られたのが牛頭大王。牛頭大王が祀られている神社は多いのですが、つい百年ほど前、明治時代に他の神様にきりかえられています。そのため百濟王神社/くだらおうじんじゃのご祭神は百済国王と進雄命、江戸時代までは牛頭天王です。
百濟王神社/くだらおうじんじゃは、京阪電車交野線、宮之阪駅から坂を登ること徒歩7分ほどの枚方市中宮西之町にある神社です。百済滅亡後、日本に残留した百済王族が氏神として祖霊を祀った場所にある神社です。
百濟王神社 〒573-0021 大阪府枚方市中宮西之町1−68