多井畑厄除八幡宮は、多井畑の源氏の厄神さん
現在の兵庫県神戸市須磨区に配流された在原行平や、一の谷の合戦の際には源義経が祈願したといわれており、日本最古の厄除けの霊地と伝えられている厄神さんです。ちなみに源平の合戦で「鵯越の逆落とし」で源義経を案内したのが鷲尾義久さんで、ここ多井畑は鷲尾一族が住んでいました。今でも鷲尾さんは多いです。平家の末裔と親に言われてきた身としては、複雑な気持ちでお参りしましたが。
毎年1月18日から20日の3日間に渡って厄除大祭が行われ、厄年のお祓いや疫病退散、病気平癒の祈願と厄除けにたくさんの参拝者で賑わっています。
神護景雲4/770年6月に今の時代とおんなじように疫病が大流行し、それを鎮めるために大和、山城、河内、摂津、和泉の国境10ヶ所に疫神を祀り、疫祓いが行われました。その一つが摂津国の多井畑厄神さんです。『続日本紀』に「光仁天皇の神護景雲4/770年、畿内10箇所に疫神を祭って疫神はらいを行わせた」と記されています。
いくよ目覚めぬ 須磨の関守
摂津と播磨の国境に位置していたのが須磨の関。「淡路島 かよふ千鳥の鳴く声に」と小倉百人一首にある須磨の地にある厄神さんは、厄除けの霊地の代表的なパワースポットです。畿内と畿外を分ける重要な場所なので厄神さんを設けて疫病神の侵入を防いだとも言われています。
日本では身体の変わり目を、厄年と言って注意しています。その年齢には種々の説がありますが、とりわけ、男42才・女33才は本厄とされています。その前後の年齢も要注意なのですが。そのため、心にとどめ置くために、厄払いというものを先人たちはしてきたのですね。一年の安全を祈願する慣わしであり、これを厄祓い・厄祝いといわれてきたのですね。
ひながた
ここ多井畑厄神さんでは人の形の紙、お初穂料200円に名前と数え年を記入し、水に流すということをします。本殿の左横の丘を上ったところで、この厄除けをします。
疫神祭塚というところに水が張ってあり、そこに浮かべると厄や災いを除ける。古くは平安時代に、宮廷や貴族の間で陰陽師によってこの行事が行われていました。今日一般には、紙で人型を造り本人の代わりとして、これに災い、穢れを移し身代わりとして水に流す。つまり身代わりになる人型に代わりに悪い気を吸ってもらうという感覚ですね。
この神事は1月の18日から20日の3日間におこなわれ、縁日屋台も盛んです。
この地の女性を愛した在原さん
多井畑は、田の開けた山間の村の意味で、平家物語にみられることから平安時代からの村名で、由緒ただしき土地柄。文禄三/1594年には、豊臣秀吉公から「ご朱印状の交付」の記述があります。
平安時代に時の権力者であった天皇から、左遷されて須磨に赴いた在原行平さん。平城天皇の皇孫というやんごとなき身分。この方が須磨の浜で一弦琴を弾いていると、どこからともなくやってきた麗しい女性ふたり。その二人が多井畑村のおさの娘・もしほさんとこふじさん。
日本的なのはこのお二人のなまえが今の世でも、通用している不思議。彼女たちの名がついた地名が神戸には残っているのです。ちなみに行平町もある。すごくないですか? 恋した女の人の名前が一千年たっても残ってるんですよ。
在原行平さんは、『伊勢物語』で「昔おとこありけり」と言われた六歌仙の一人として有名な在原業平の兄さんです。在原業平さんは天神さんで親しまれている菅原道真公と歌を京都長岡京で比べあった方でもあります。そして神戸の須磨には、その道真公ゆかりの地がたくさんあるのです。綱敷天満宮、板宿、飛松伝説と。
多井畑村の中には、源義経公ゆかりの腰掛の松があります。寿永3/1184年2月7日未明に多井畑厄神さんへ戦勝祈願をした後に、松の下で休息をとり一の谷の合戦へと向かったと伝えられています。この地が【ほんがん】さん↓と言われるゆえんです。厄神さんから西側にあります。
多井畑厄除八幡宮〒654-0133 兵庫県神戸市須磨区多井畑 字宮脇1番地
アクセス/
地下鉄妙法寺駅から市バス88系統柏台行き
多井畑厄除八幡宮には普通自動車が300台収容可能な無料駐車場があります。利用時間/午前9時から午後4時まで