「え!!下鴨神社行ったのに、美人祈願の神社を逃してたなんて。」と嘆いていた友人がいたので「美人祈願するまでもなくお綺麗です」と言うと。「そうね」と頷くのが女の子ですね。
意外なことにこの河合神社を見落とす人がいます。と言うのも下鴨神社はどこから神社境内なの? と思うほどにデカイです。と言うか、糺ノ森という森の中にある社殿です。賀茂川と高野川の川が出合う地点北にあるV字型の中洲のようなところ全体が下鴨神社。京都植物園の向こうの北には元は同じ神社だった上賀茂神社があります。
V字の頂点から、下鴨神社へお参りにポコポコ歩いてると森に入ります。その入ったすぐの西、向かって左に河合神社はあります。ここから下鴨神社社殿までは、そこそこ歩きます。
日本第一美麗神、女性の守り神・玉依姫命
糺ノ森のみどりの中に赤い鳥居が二つ見えます。そこから入ると河合神社です。古くから、日本の女性の鑑として親しまれている玉依姫命/たまよりひめのみことをご祭神としています。
すべての女性が今よりもっと美しくなりたい。その願望を叶えてくださるのがここなのです。玉依姫命は女性が美しくなりたいという美容に関しての願望や、安産・育児・縁結びなど、女性ならではのお願いごとを叶えてくださる神様として広く知られています。
平安時代からある神社
792年『延喜式』には「鴨川合(かものかはあひに)坐小社宅神社」と記されています。鎌倉時代、室町時代には鴨川と高野川の合流点にあることから、男女の仲を守る神としての霊験がある神社と言われていました。
平安鎌倉時代の歌人・鴨長明(1155-1216)はこの河合神社の宮司の次男として生まれました。
ゆく川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず
元々は河合神社はユダヤ人の秦氏の祀る神だったとも言われています。秦氏は平安京の壮大な碁盤の目の都市構造を計画した人でもあります。鴨氏は秦氏の婿になり、祭りを譲られ禰宜/ねぎとして代々祭礼を司るようになったと。
境内には「方丈記・方丈の庵」があります。鴨長明が、『方丈記』を執筆した「栖/すみか」が再現されています。移動式の家で今でいう所の「テント」ですが、広さは一丈、約3m四方あることから「方丈」の名がついたのです。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。
『ゆく川の流れ』の川はもちろん鴨川を表しています。賀茂川と高野川の合流地点の下流は、鴨川と表します。鴨長明は18歳頃、それまで後ろ盾になっていた河合社の正禰宜惣官/しょうねぎそうかんの父を1173年に失います。
後鳥羽院は河合社禰宜に鴨長明を推しました。また、別の社を官社に昇格させ禰宜職に就けようとも後鳥羽院はしましたが、彼は家族内のごたごたなどから宮職にはつかず、離婚までして出家したのです。そして今風にいうと自由なフリーターになったのです。
世の中にある人とすみかと、またかくの如し。
こうしたことから隠遁生活の元祖とも言われ、隠遁者文学の祖とも言われているのです。彼の文には無常観が鴨川のように流れており、世の中を否定し、そして仏教もまた否定しています。男性は鴨長明にどこか憧れます。
朝ごとに向かう鏡のくもりなくあらまほしきは心なりけり
この歌は明治天皇皇后・昭憲皇太后の「鏡」という歌です。鏡絵馬を奉納した後、御供米とともに「美しい女性であるために」と書かれたしおりに書かれている歌です。
玉のように美しい「鏡絵馬」をメイクアップして奉納したあと、美しい心を持てば、その美しさは自然と現れますよということです。歌を訳すと「毎朝向う鏡が綺麗であるとまことに気持ちがよいように、人の心も色々のものを写しだす鏡は常に清く澄み明らめておきたいものです」と。
河合神社〒606-0807 京都府京都市左京区下鴨泉川町59アクセス/京阪電車「出町柳駅」下車、高野川渡ってとほすぐ オープン/朝6時半から17時