金地院東照宮、隠れた京の名所

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金地院東照宮、隠れた京の名所

アニミズム、お山、神社とお寺は宗教争いを避けるために一緒だった日本

神社とお寺は分けたり、神社の格を分けたりするのが好きなお役人さまのどうでもえぇような仕事、そんなどうでもえぇことが仕事? 明治時代のお役人がえらいことしでかしたわけです。まぁそんなことで、今の日本での神社とお寺さんの界や、仏像を神社に祀ってはいけないだとか、鳥居は紅色はダメですとか。本地垂迹説も何にも分けわからんことになってきて。挙句の果てに、名前をかえて明日からは違う名前で違う人間、なんだかこれ、、

金地院東照宮、隠れた京の名所

あなたはこの門は神社だとおもう? お寺さんだとおもうどっち。

小学生の時に先生に「楠公さんは楠木正成さんのお墓なんです。しかも水戸黄門さま、吉田松陰、幕末の志士たちまでもがまんまんちゃんあんしたんですよ」と言われた時、あぁそれでえぇんやぁと。湊川神社の横には黄門さまが助さん格さんに命じて建てさせた墓標まである。天満宮さんも菅原道真公のお墓で、嚴嶋神社も平清盛公のお墓みたいなもんとお参りする。それが日本的おまつりのかたちだからねぇ。金地院東照宮、隠れた京の名所

一応、徳川家康(天文11年12月26日/キリスト暦1543年1月31日〜元和2年4月17日/1616年6月1日享年75)を祀った神社である金地院東照宮、後水尾天皇から追贈された神号の「東照大権現=徳川家康」には由来します。が創ったのはお坊さんですけどね。金地院東照宮、隠れた京の名所

本来、その人だって自分が死んだらどうなるかなんて分かってなかったんだから。「え、鳥居があって、そこに私が居るのかい。鳥居は紅鳥居だよね」と。「いやぁ孫たちに供養もしてほしいから、お寺さんの方がよかったなぁ」とか。「坊主を重用していたのだから、一人くらいは死んだ私のために毎日読経しろよなぁ」とかご先祖様は言っているはず。金地院東照宮、隠れた京の名所

徳川家康公の重用されていた禅宗の坊さんが金地院崇伝と南光坊天海のお二人。教科書にでも出てくる崇伝と天海のお二人ですから、日本人なら一応知っています。法体にありながら、俗世間で政治に参与して大きな影響力をもつに至った江戸時代初期日本の権力者とも言われていますね。金地院東照宮、隠れた京の名所

まぁ坊さんが言うことの方が、損得しか考えない私たちの浅はかな考えよりまし

ただ坊さんもただの人間、二人も居るとどちらかが目立ちたがるのが世の常。家康公が亡くなったあと、ふたりは意見が対立し、というかどちらが権力を持つかで「黒衣の宰相」とも呼ばれた崇伝は閑職へと。金地院東照宮、隠れた京の名所

まぁ目立ちたい人は前もって、次の将軍に入れ込む、競争相手のあることないことを吹聴する。これ室町戦国時代は当たり前、「横目」という同じ仲間を同門内で監視するというスパイのような役職まであった時代ですから。金地院東照宮、隠れた京の名所

清盛公からはじまった開運国家・日本

徳川家康は、織田・豊臣時代に彼らが貿易により鉄砲や火薬を手にいれて繁栄したのを目の当たりにして居る。そのため、朱印船貿易を奨励。ただ問題だったのが、貿易品と共に入ってくる宗教、キリスト教。表向きは「キリスト教は禁止」だったため、密かに信仰する大名や武士がいたため、彼らを横目で見ながら、ゆすりタカリをするものなどの事件が起こる。金地院東照宮、隠れた京の名所

そこで崇伝さんが「それ日本は元これ神国なり」と伴天連追放の法令を起草し、キリスト教の禁止や、寺院諸法度・武家諸法度・禁中並公家諸法度の制定に関わる。そして現在の戸籍制度のもととなるお寺さんによる檀家制度を確立したのも崇伝さん。ただお寺というのは、元は新羅や百済からきた朝鮮民族により確立された文化であり、既得権益。でも、日本語をしゃべることができない人たち、つまり密航などで大陸から移り住んだ人たちはお寺の檀家にはなれなかった。これも不思議なんだけれど。金地院東照宮、隠れた京の名所

家康公は、平家と源氏の争いから江戸にいたるまでの刀を持ち権力を持っているもの同士が争うのは国家のためにはならないと考えていたんだろう。それは太閤秀吉公がおこなった刀狩りもその流れ。そのために、ある部分は腕っぷしの強い人間よりも頭のまわる、世のため人のためになるような人間を重用しようとしたんだろうなぁ。まぁ水戸黄門さまのような、まぁドラマの黄門さまは日本中行脚していますが、黄門さま、助さん格さんに命じて、地方に行ってあれこれしたのはお二人と忍者さんたち。金地院東照宮、隠れた京の名所

意外と穴場の京都らしいお寺さん、いや神社さん、いや家康公のお墓

神社でもない、お寺でもない、でもすごい日本庭園まである、しかもいつ訪れても人があまり居ない。家康が遺言で残した東照宮ですが、そのうちの一つは南禅寺の塔頭・金地院の境内にある東照宮と言われています。金地院東照宮、隠れた京の名所

1628年、崇伝は金地院に東照宮を造営し、家康の遺髪と念持仏を納めました。また、警護するために京都所司代の番所が置かれたのです。金地院東照宮、隠れた京の名所

金地院の東照宮は国の重要文化財で、本殿、石ノ間、拝殿からなる権現造りです。本殿は総漆塗り、壁は極彩色で彩られ、拝殿の天井には狩野探幽の鳴龍が描かれています。こちらは神社のような形態のもの。金地院東照宮、隠れた京の名所

小堀遠州作といわれる名園はここだけかも

小堀遠州作と伝えられている「鶴亀の庭」をながめるように建っている大きな建物が方丈になります。小堀遠州作と伝えられている庭園はいくつも存在しています。金地院東照宮、隠れた京の名所

それなのに、小堀遠州作だという確かな資料が残っているのはこの金地院の庭だけで貴重な庭園ですが人気薄。それを望む方丈は伏見にあった桃山城にあり、それを崇伝が徳川家光より賜ってここへと移築させたもの。金地院東照宮、隠れた京の名所

同じように伏見桃山城の遺構は琵琶湖に浮かぶ竹生島などにあります。こんな大きな建物でも城の「一部」。伏見桃山城全体の壮大さがしのばれる建物です。ここで靴を脱ぎ、ぼけっと庭も楽しむのがいいんです。こちらはお寺形式のものですね。でも庭園の島の部分には鳥居がありますけどね。これが日本の宗教の凄さです。ちなみに庭園の池にある島は神の住まわれる場所という意味です。金地院東照宮、隠れた京の名所

日光東照宮、久能山東照宮に次ぐ日本三大東照宮の1つとされる鳳来山東照宮。金地院東照宮 〒606-8435 京都府京都市左京区南禅寺福地町44

開門時間/3-11月9時から17時、12-2月9時から16時半 拝観料/500円※八窓席と方丈の拝観は事前予約と別途700円が必要

ご祭神 徳川家康公

徳川家康

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