怨霊を恐れない人はいない
日本では人を嘘で欺き、偽りの約束で安心させて、そして死に至らしめる、その後その人の権利を奪うなんて行為は断じて許されてはいません。しかし、民族が違えば他人の命を奪い、その領土を奪うというのが当たり前の人たちもいます。アメリカンなどその典型ですね。日本では不慮の事故や不遇の死を遂げた人の「みたま」を敬い、鎮めるという行為があります。それには身分が低い高い、敵味方などの区別はありません。
イギリスで虐げられたので船で新大陸をめざし北アメリカ大陸にわたり、そこの先住民であったインディアンを皆殺しにして、今のアメリカ国が出来上がった。北アメリカの領土だけでは満足せずに、海を渡りハワイ王国を攻め、領土を拡大。それでも満足しないアメリカンは、ハワイの西の黄金の国ジパングを狙ったのが第二次世界大戦。
何もアメリカンだけが、領土を奪い、そこの民を奴隷として搾取するのではありません。秀吉公の時代に太閤が怒り、宣戦布告までしたスペイン国もそうですね。日本に助けられた国スペインはオンを仇で返す国ですから。あぁ、このような話はどこかで最近も聴いたことがありますね。恩という考え方はアングロサクソンにはありません。
植民地化されて搾取されていたアジア
第二次世界大戦なんて、誤魔化した言葉で語られますが、ヨーロッパでのイジメ倒されたドイツ人が怒り、ヒットラーが生まれ、戦争を各国として領土を拡大したのと、大東亜戦争で日本がアジアの国々で連合国と戦ったのは目的が違います。
大東亜戦争の時に今のロシア・ソビエト連邦と日本は日ソ不可侵条約を結んでいたので、言ってみれば味方。だから、命のビザを手にシベリア鉄道に乗り、船で敦賀港に渡り安全な国・日本へ。そして神戸港からアメリカへとユダヤの人々はナチスから逃れられた。
第二次世界大戦なんて言葉で誤魔化されていますが、アジア植民地各国でそのアジアの国を牛耳っていたイギリス、フランスとかと戦ったのが日本。赤い先生たちが教える「日本がアジアを侵略した」なんてのは嘘ですからね。
嘘を教える人はいい死に方をしないと我が国では言います。『ビルマの竪琴』を読めば先生たちの嘘がバレます。先生に騙されないために、自分の目で現地に行って確かめることも旅の楽しみです。
怨霊が漂う時
日本人を皆殺しにして領土を奪えと指示した、奴隷レイヤー思想のアメリカ国ルーズベルト大統領は、大東亜戦争の勝利を見ずして病に倒れ逝去されました。「それみたことか」と民はおもうわけですね。
人の恨みをかうとは、このことかもしれません。日本民族根絶やしを試みた彼は、ぽっくりと奈落へ散って餓鬼となった。戦争中、アメリカの大統領を呪う術が日本各地で行われていたと言います。
個人的に恨みつらみを晴らそうというのではなく、日本という国家を護るために。仏教では護国三部教という国を護るための方法があります。例えば『金光明最勝王経』では、四天王が日本国家を護ってくださっているという教えがあります。この四天王にお祈りを捧げる行為は、今でも行われていること。
熱田神宮では草薙の剣での日本国家鎮護の儀式が戦争中に行われていました。また真言密教では霊術で国家を鎮める、という法があります。大東亜戦争当時に、相手国であるアメリカを霊術で縛りつけようとする法が行われていた事は事実のようです。
国民、日本軍また日本国政府によっても、神道、仏教、キリスト教、ユダヤ教にいたる祭事者によって、呪術が行われたという話もあります。民族を根絶やしにしようなんて暴挙、ジェノサイドをどんな神もお許しになるわけはありませんからね。
日本では古来から霊に対する敬いが
歴代天皇で、お一人だけ崩御された後に天皇になられた方がいらっしゃいます。早良親王です。藤原種継の暗殺、薬子の変に関与した罪により淡路島へ島流しに、無実の罪を証明するために絶食して淡路島で没しました。
直後に桓武天皇妃藤原旅子、藤原乙牟漏、坂上又子の病死と不幸が続く、疫病の流行、洪水などが相次ぎ、都では早良親王の祟りとしておそれられました。幾度か鎮魂の儀式が執り行われましたが、延暦19/西暦800年に早良親王は崇道天皇と追称されました。
母君が藤原氏のような裕福な家系ではないために、若くして東大寺で出家させられて不遇の身だった早良親王。当時、仏教が政治に関与しすぎていたので遷都をし奈良から権力を遠ざけた。その仏教に通じている早良親王は邪魔であったという説もあります。お亡くなりになってから天皇になったところで、、また皇位継承をしたことはないため歴代天皇には数えられていません。
同じ藤原種継の暗殺に関与した無実の罪により大伴家持公は、身分家禄を没収、死後お弔いさえ行われなかったのでお骨すらどこへやらと。権力者のすることなんてこの程度のことです。だから祟りが起こるのですね。
天神さんのお名前で日本人なら子どもでも知る人物に、菅原道真公がいらっしゃいます。中央政府から遠ざけられて福岡太宰府でご逝去。その後、京都の都ではコロナのような疫病が蔓延します。道真公を追いやった藤原氏一族に不慮の死が次々と訪れます。摩訶不思議な現象を、民は祟りと。
トドメは今で言う国会議事堂である清涼殿が落雷により消滅。それを間近でご覧になられていた天皇は「道真公の祟り」を信じます、そして病に伏されて崩御。その後、道真公の霊を弔うために京都北野に天満宮が創建されたのです。
大和言葉でいうと「玉鎮め」
「みたま」なり「魂」といった霊が人々に様々な災いを起こすことは縄文時代から知られていました。怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざが、疫病、自然災害や不慮の事故と見なします。畏怖し、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする知恵が日本のごりょう信仰と呼びます。
それは祖先を敬い奉る「祖霊拝」に繋がります。自分の血脈の中に宿っている先祖たちを奉ることであり、すなわち自分自身に宿る神なるところを敬い、祈り、大事にするというおこない。自分を大切に扱いながらも、日本民族のためなら特攻隊で自爆してでもおんなじ民族を護るという、次世代へのおもいに繋がります。だから、これだけ宗教施設がある国なんでしょう。
京都御所の北側にある厄除けの御霊神社@京都鞍馬口
この地には、はじめ上出雲寺があったが794年、平安遷都に際し桓武天皇の勅願により王城守護の神として奈良・平安時代初期に不運のうちに薨じた八柱の神霊が祀られた。つまりはお寺さんであったわけ、でどこかで権力者の意向で神社に。
崇道天皇/早良親王や橘逸勢など非業の死を遂げた八柱の神霊を祀のちに、明治天皇の御願により祭神五柱が増祀されました。御霊神社は古来疫病除の霊社として有名で、庶民から朝廷までもがこのお寺さんであり神社であるところを大切にしてきたわけです。本殿は享保18/1733年に賢所御殿を復元したものです。
境内は「御霊の杜」と呼ばれていて、応仁元/西暦1467年正月18日に畠山政長と義就の合戦が行われていて、のちに応仁の乱の発端となった場所としても有名です。
御霊会は御霊祭とも呼ばれ、毎年5月1日から18日にかけて周辺では御霊祭がおこなわれます。上御霊神社とも言います。
〒602-0896 京都府京都市上京区上御霊竪町495番地
開門/9時00分~17時00分ご祭神
・崇道天皇/光仁天皇第二皇子/早良親王
・井上大皇后/聖武天皇第一皇女/光仁天皇ノ皇后
・他戸親王/光仁天皇第四皇子
・藤原大夫人/藤原吉子命
・橘大夫/橘逸勢命
・文大夫/文屋宮田麿命
・火雷神
・吉備大臣/吉備真備命
創建 貞観5/863年