キテレツ大坂城が太閤秀吉の城じゃないってホント、桜と梅の名所大阪城Go to トラベルTravel to Osaka

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大坂城が太閤秀吉の城じゃないってホント

なにわのことも夢のまたゆめ。地下に眠るのが秀吉の大坂城

豊臣秀吉は、賤ヶ岳合戦により柴田勝家を倒し大坂を手中にすると、本願寺の跡地に天下に比類なき城郭を築き始めます。本丸、二の丸の規模は現在の大阪城とほぼ同じで、それを取り囲む2km四方にもおよぶ惣構を備えた大城郭でした。都市大阪の基礎は、この秀吉の大坂城と城下町建設によって形成されたといえるのです。秀吉が天下人と成ったあと築城したのがこの大坂城。意外と知られていない、秀吉の出世城と呼ばれているのが姫路城

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「大坂夏の陣図屏風」を元にした人形展示「ミニチュア夏の陣」有名な「天王寺口の戦い」

しかし、栄華を誇った豊臣氏も秀吉の死後、慶長19、20/1614・15年の大坂冬・夏の陣によって大坂城と共に滅亡してしまいます。豊臣氏の大坂城はお堀と同じように埋められて、その上に徳川幕府の再築工事によって城が築かれます。大阪城が秀吉の城じゃない

大阪城が秀吉の城じゃないって本当

むごいことをするよなぁ徳川、なんて一緒に観に行った土木関係の友人に言うと「そうかなぁ。豊臣秀吉時代の城は基礎部分が狭かったので天守閣をゆったりと建てられるように土を盛って広げたんじゃない」と。確かに秀吉時代の城よりも裾野が広くどっしりとしたのが江戸時代の大坂城。

大阪城が秀吉の城じゃない

2代将軍・徳川秀忠の時代に造られた石垣

寛永3/1626年の徳川家光の時代には徳川幕府による天守ができます。しかしこの天守は40年足らずで落雷により焼失。同じように江戸城の天守閣も焼失して、その後再建されていません。雷さんは日本では神。その神雷が城に落ちたのですから「太閤さんが怒って雷を落とした」と言われたのもうなずけます。以来266年間放置されたままでした。

桜と梅の名所大阪城

「大手門」のすぐ奥に、迫力の石が

今の大坂城は昭和6/1931年市民から集まった寄付金約150万円で建て直したものです。「太閤さんの城」と言われてはいますが、本当は徳川大坂城と豊臣大坂城の二つのハーフですね、第三代復興天守閣は。

豊臣秀吉は大坂城に居たのは数年で天正19/1591年に太閤になると伏見城に移り、最期も伏見城で迎えています。大坂城に長く住んだのは遺児秀頼。5歳の時に父が亡くなったあと伏見城から移り、23歳で自害するまで大坂城で暮らして居ます。大坂城は豊臣秀頼のお城とも言えます。

豊臣時代の大坂城の遺構はここにはなくて、琵琶湖の中の竹生島にあります。

大手見附石

城内で4番目に大きな「大手見附石」

大坂城の見所は日本一高い石垣とお堀

石垣とお堀は徳川時代のものがそのまま残されています。太閤秀吉時代の石垣は地中に埋まったまんまで、それを掘り起こすプロジェクトが現在あるそうです。

石垣に使われている石がとてつもなく大きなものがあり、驚きます。また大坂城内には石を使ったオブジェのようなものもたくさんあります。また石垣を正面に見ながら用を足せるトイレが桜門横にあります。桜と梅の名所大阪城

大坂城は梅と桜の名所

太閤秀吉が愛したもののひとつに桜があります。桜のお花見の原点は、秀吉が催した醍醐の花見だと言われています。大坂城は桜の名所でもあります。場内には梅園もあり、春のお花見には最高の場所です。ぜひ梅の3月はじめそして桜の4月はじめの頃に大坂城を観てください。桜と梅の名所大阪城

大阪城天守閣
開館時間/午前9時~午後5時、桜シーズン、ゴールデンウィーク、夏休みは開館時間を延長
休館日/12月28日~1月1日
利用料金/大人600円、中学生以下無料

大阪城〒540-0002 大阪府大阪市中央区大阪城1−1豊臣秀吉

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