ちいさなお城の伊賀の町

投稿日:

藤堂高虎@伊賀上野城

世のため人のため

いま過去に焼き払われた遺産や大東亜戦争でアメリカ軍により焼き払われた日本の大切な文化を復興させようとする動きが出ています。藤堂高虎@伊賀上野城

一つは日本にたくさんあったお城。城跡でも、多くの人たちが旅に訪れる光景をみれば、元々の姿がそこにあればと誰しもがおもいますよね。ちいさなお城の伊賀の町

大東亜戦争で木っ端微塵にされた広島城しかり、数多くの武将をうんだ尾張の國の名古屋城しかり。お城を現代の匠の技術で木組みで造り上げようとしている。藤堂高虎@伊賀上野

今の時代を先取りするかのような行動を起こした人が忍者の里、伊賀にいらっしゃる。藤堂高虎@伊賀上野

ちいさなお城の伊賀の町

日本一とまでうたわれた高い石垣を持つ伊賀上野城。上野盆地のちょうど中心に位置する丘。平清盛の発願によって建立された平楽寺という大寺院があった場所。平家は元々は伊勢平氏と言って、今の三重県が地元でした。藤堂高虎@伊賀上野

天正9/1581年織田信長の兵火により炎上。その後、太閤秀吉公が東からの攻めを防ぐために伊賀上野城が出来上がった。藤堂高虎@伊賀上野

慶長13/1608年に徳川家康公の命により上の城主となった藤堂高虎。大阪の太閤秀吉方からの攻撃を意識して本丸を西に拡張して高い石垣を積み上げました。ちいさなお城の伊賀の町

同時に造られていた五層の天守閣が慶長17/1612年の暴風雨により倒壊。大坂夏の陣で勝利した徳川家康は、今後城を造ることを禁止したため伊賀上野城は天守閣が完成しないままでした。藤堂高虎@伊賀上野城

この天守閣建造の前にあった筒井定次城主時代の天守閣。尾張三河の東方からの攻めに備えて三層の天守閣がそびえ建っていた。しかしこの天守閣も寛永10/1633年に暴風雨によって倒壊している。この伊勢地方はいまでも台風の通り道と言われるほどの地域、日本で一番雨の多いのも三重県。川崎克

木造三層の立派な復興天守閣

伊賀出身である衆議院議員の川崎克氏(明治13年12月28日〜昭和24年2月3日)が、ご自身の私財を投じて建造したのがいま私たちが登城できる伊賀上野城です。建てられたのは昭和時代ですが、城内には戦国時代の雰囲気が随所に漂っています。

天守最上階の格子天井には、天守の完成を祝って著名な画家や書家などより送られた色紙絵が46枚はめ込まれています。郷土の文化を愛した川崎克は自身も書画をたしなみ、天守閣再建費用のために美術品や作品を売却したと言われています。当初の計画では五層の天守閣でしたが、資金の関係で三層になったと。それでも立派な天守閣です。藤堂高虎@伊賀上野城

私の大好きな西岡たかしさんの歌『上野市』のなかで「ちいさなお城の伊賀のまち」とありますが充分に大きいお城です。自分たちの街の誇りとして上野城を再建しようと志すところが、伊賀のひとたちのすごさですね。今の時代はお金儲けのために役人や政治家になる人が多すぎて、日本のためみんなのためなんて気概なんてない。収賄やパワハラは当たり前なんて、世の中どっか変ですよね。まぁ日本人じゃぁないんですね。藤堂高虎@伊賀上野

格子天井の中の一つに「非理法権天」と言う言葉があります。意味は、道に背けば天が裁くちいさなお城の伊賀の町

この言葉を今の政治や行政に携わる方々に伝えたいですね。次の世代のこと、その次を考えるのがこうした町のあり方なんだろうなぁっと。ちいさなお城の伊賀の町

お城がある町はどこも落ち着いていて、風情があるのです、それがどこから来ているのかを一度考えてみられては。藤堂高虎@伊賀上野

また、伊賀出身である衆議院議員の川崎克さんは、郷土出身の松尾芭蕉生誕300年を記念して、昭和17/1942年には城郭の中に俳聖殿を建立。今では国の重要文化財として指定されています。

ちいさなお城の伊賀の町

俳聖殿

その姿が不思議で丸い屋根は旅笠、「俳聖殿」の木額が顔、八角形のひさしは蓑と衣姿、堂は脚部、回廊の柱は杖と足と松尾芭蕉翁の旅姿を模して建てられた遊びこころのある珍しい建築物です。藤堂高虎@伊賀上野城

伊賀上野城 〒518-0873 三重県伊賀市上野丸之内106 登城料/大人600円 開門時間/9時00分~16時45分ちいさなお城の伊賀の町

-
-, , , ,

Copyright© 旅に出ようGo to JAPAN , 2024 All Rights Reserved Powered by STINGER.