七夕織姫伝説の機織神社@大阪交野

更新日:

七夕織姫伝説の機織神社@大阪交野

七夕といえば交野

甘野川が流れていて、肥沃な土地であった大阪府の北側の地域。京都が首都だった時には、ここが農産物の出荷場所だったんですね。

七夕織姫伝説の機織神社@大阪交野この地域で獲れるお米は甘いと京の都では有名となったんですね。七夕織姫伝説の機織神社@大阪交野

そして平安時代にこの地域が有名だった理由のもう一つに隕石がこの地域に降ってきて、そのために山が削られたりしたわけですね。この空からの落下物はスイフタットル彗星である可能性が高いと今では言われています。七夕織姫伝説の機織神社@大阪交野

鉱石をみつけるのに長けていた人がいますね。その代表が弘法大師空海さん。交野の近くの私市の山中で修行をしていた空海さん、その時にこの隕石が三箇所に落ちてきたのです。それが今では「降星伝説」と言われている星田妙見さんと光林寺と星の森。この三箇所が不思議なのは、正三角形を成していると。弘法大師空海さんの伝承は後付けの場合もあるのですが、彗星が地球に降ってきたのは事実。七夕織姫伝説の機織神社@大阪交野

日本に宇宙から星が落ちてきたことを平安時代の人は知っていた。そのために交野ケ原が七夕伝説と結びつくようになったんでしょうね。七夕織姫伝説の機織神社@大阪交野

平安時代の『伊勢物語』にも記述があるくらいですから、平安時代から七夕といえば交野がゆかりの場所と知られるようになっていったのです。七夕織姫伝説の機織神社@大阪交野

竹取物語の竹がたくさんある筍の産地、そして京都に近い町は長岡京のあった長岡、八幡の地域、その大坂側の隣は枚方、交野なんですね。こうして物語ができていくんじゃないでしょうか。太陽信仰が彦星で月信仰が織姫。月に帰ったといえば、求婚する男性陣に無理難題を押し付けたかぐや姫。男岩と女岩という考え方も日本独特の文化ですね。七夕織姫伝説の機織神社@大阪交野

そうなれば民はどうする

人が注目するところには、人が集まり、そしてお金が落ちますね。今の時代はねぇ、ただ平安時代はまだ貨幣経済ではなかった。貨幣経済を持ち込んだのは平清盛さんで、宋貿易で宋銭のお金を輸入してから。七夕織姫伝説の機織神社@大阪交野

ただ平安時代から、ここ交野は有名な土地柄だった。だけど今では七夕といえば仙台、これはマスコミの責任です。猫も杓子もおんなじ報道、嘘偽りのある、恣意的な宣伝ですね。七夕織姫伝説の機織神社@大阪交野

本来の七夕は交野だったわけですね。江戸時代までは甘野川と呼ばれていた川は今では「天の川」と呼ばれ、そして星にまつわる地名の土地柄なんですね。七夕織姫伝説の機織神社@大阪交野

そして七夕といえば、織姫と彦星。実は交野には、多分ユダヤ系の人たちであろうはたおり氏「秦者」が機織り物に。まず秦氏は養蚕業を広めていた。そして養蚕があれば、絹機織り業が付随する。それを証拠とするのが「機織神社」。七夕織姫伝説の機織神社@大阪交野

七夕の織姫は交野の「機織神社/はたものじんじゃ」

「機織神社」の地域に居た人たちは、七夕まつりは私たちのお祭りと言います。養蚕業が盛んであり、絹織物を得意とした人たちが居た地域、そして美しい絹織物はすぐ隣の京都の都へ運ばれる。七夕織姫伝説の機織神社@大阪交野

秦氏は星の動きや太陽の動きを精知

「機織神社」から交野山を望むと、冬至の日にその山から太陽が昇る。冬至前後はお山は日輪をあびるわけですよね。その交野山には巨石が鎮座している。不思議ですよね。日本人が巨石信仰をしているのもわかるような気がします。七夕織姫伝説の機織神社

機織神社〒576-0051 大阪府交野市倉治1丁目1-7 アクセス JR学園研究都市線「津田」駅下車、徒歩で10分

ご祭神は天棚機比売大神/あまのたなばたひめおおかみ

7月6日と7日の祭礼には境内に笹竹がたくさん立ち、参拝者が願い事を五色の短冊に書いてお気に入りの笹竹に括り付ける風景は交野の風物詩、写真は2024年の風景。
七夕織姫伝説の機織神社

-
-, , ,

Copyright© 旅に出ようGo to JAPAN , 2024 All Rights Reserved Powered by STINGER.