霊気に満ちた高い山が連なる島
嚴島は本土から観ると、山が連なる姿が立派で、その姿から自然崇拝の対象となっていたのです。こうした自然崇拝の島が瀬戸内にはいくつかあります。崇拝の島のため、自然も手をつけられず原生林のままの姿なのです。
名前の元、お宮さんは推古元/593年に、佐伯氏により嚴島神社が創建されたのがはじまりです。そして大同元/806年に唐から帰って来られた弘法大師・空海が、嚴島の山の姿を観て須弥山に似ていることから弥山と名付けて、その山に三鬼神を祀ったのです。
なぜ鬼を祀ったのかですが、空海はここ嚴島と敦賀氣比を日本の気が集まる場所だから他者の侵入を許さないと言うことからとも言われています。本来は修行の場です。
空海が祀った三鬼堂をなんども尋ねている伊藤博文公は「宮島の美しさは、弥山に登ってこそ」と言われて、三鬼堂から弥山頂上までの山を歩きやすいように私財で整備されたのです。
平家の守護神
安芸守から太政大臣に昇りつめた平清盛によって、平安時代末期嚴島神社は栄えます。神主・佐伯景弘は竜宮城や極楽浄土を模した華麗な海上社殿の造営を計画。平清盛の援助で現在の形の海に浮かぶ社殿が完成するのです。平安時代まで嚴島は人が住まず、神職や僧侶でさえ島に渡るのは祭祀の時だけでした。
室町時代に入り瀬戸内海交易の中継基地と成った嚴島は、神の島から街を形成する島へと変貌していくのです。江戸時代の嚴島神社は社家を代表する棚守、供僧を統括する大聖院、寺社造営修理を掌った大願寺の三者による経営体制が維持されます。
今の人は神社は神主さんがお祭りをしてと思いがちですが、お坊さんがお祭りを執り行ったりしていたわけですね。
明治元/1868年に神仏分離令を発令
嚴島神社や千畳閣・五重塔にあった仏像は、大聖院や大願寺に移されるなどの混乱が起きたのが明治時代。
嚴島に数多くあった寺院は廃寺に。神社とお寺を分けたことで起きた混乱により、いまでも私たちは宗教に対して??と。それは、ある意味唯一神を祀る人たちによって起こされた混乱なのでしょう。
この後追い討ちをかけるのが原爆テロを起こしたアメリカによる、教育の中での日本での宗教概念を排除したことです。それまでの先生は公職を剥奪されて、アメリカ軍のいいなりになる先生を取り入れた。それでも昭和時代までは、例えばその街の神社のお祭りなどの時は学校は休みになるとかの宗教色がありました。
いまではことごとく宗教色は排除されています。いまでは白組紅組みという分け方まで、文句をつける赤い先生が居ます、こうなると笑いますね😀ちなみに白は源氏の旗印、紅は平家のアゲハ蝶の紅ですね。つまり日本の文化を根底から破壊するのが目的なんですね。原爆で破壊されたって立ち上がるのが大和魂ですけどね。
嚴島神社のご本尊は大聖院に
一千年以上も嚴島神社に祀られていた本地仏である十一面観世音菩薩は、つい最近の明治時代の法律によりここ大聖院の「観音堂」に来られています。嚴島神社の海上に居てもなんだかすかすかするのは、少し離れたところに十一面観世音菩薩をおられるからですね。
また豊臣秀吉太閤さんが恵瓊和尚に命じて戦いで亡くなった者を供養するために建てた千畳敷に祀られていた念持仏・波切不動明王は、大聖院の「勅願堂」に来られています。こうした事からも、嚴島神社にお参りされるのであれば、この大聖院さんも一緒に参られないといけないのではと。
大同元/806年に弘法大師のご創建のお寺さん、大聖院。弥山頂上付近にある三鬼堂などはこのお寺の奥の院。鳥羽天皇勅願の道場である本堂には波切不動尊を、観音堂には元嚴島神社本地堂本尊である行基菩薩の作と伝えられている十一面観音を安置しています。厄除け開運のご利益が大きいことから「日本三大厄除け開運大師」の一つに数えられる霊験あらたかなお寺です。
嚴島神社から弥山に向かって600mほど奥へ進むと到着。道中の街並みも素敵で、絵になるところです。少し小高いところにあり、ここからの嚴島神社に向かっての景観もいいんです。大聖院ではより深く嚴島を知ってもらうことをコンセプトにした座禅体験や僧侶と境内を巡るプライベートツアーなどが開催されています。私たちも研究室仲間と共に座禅をさせていただきました。
宮島弥山 大本山大聖院
広島県廿日市市宮島町滝町210 開門時間/8:00~17:00 拝観料/無料※各種体験、お参りはホームページを参照https://daisho-in.com/index.html
アクセス/JR山陽本線宮島口駅より徒歩約6分のJR宮島航路または宮島松大観光フェリーで宮島へ、宮島口桟橋より徒歩約20分
宮島弥山 大本山大聖院