長々し夜をひとりかも寝む
中学生の頃、国語の授業で覚えさせられる『百人一首』。その一番はじめが天智天皇、二番目が天智天皇の娘さんの持統天皇、三番目が子午線の町明石に祀られる柿本人麻呂さん。あきのたの、はるすぎて、あしびきの。ここまで言えば日本人なら分かる、それが百人一首。日本語がペラペラでも枕詞を知らない人は多いですから、スパイの暗号は百人一首、これで決まり😝
百人一首には天皇さんやその側近たちの歌がありますが、普通の人も詠んでいる。そうでなければ、私が一番の覚えて、そして変な歌だなぁと思ってしまった「すまの浦 かよふちどりのなくこえに いくよめざめぬ 須磨の関守」関所の番人ですら歌の一つも読んでしまえるのが日本人。
明石のその昔は播磨国、そして須磨は摂津と播磨国の境目だから関所がある。須磨の一ノ谷に行かれれば分かりますがすぐそこに淡路島が見えてながれの早い海峡と山が迫りきて明石海峡大橋、ただしあるのは神戸市垂水区。道は狭く鉄路と国道2号線があるだけ、そんなところが国と国との境目です。
だから平氏は源氏からの追っ手を逃れるために陸路ではなく海路を選び、長田や須磨の浜から村上水軍をはじめとする水軍たちの舟で瀬戸内海を九州へ向けて逃げたと。山口下関の関門海峡で、幼い安徳天皇はおばあちゃんと共に海へのまれた。まだ成人にも成れず崩御をよぎなくなされた。悲しい歴史の天皇は彼だけなのに、ただ安徳天皇を祀るところはさびしいんですよね。
この難所とも言える播磨と摂津国の国境、この地形のために平家の少し後の楠木正成は同じように神戸で戦をするのは、これは負け戦だと考えます。
だから足利軍を京都におびき寄せてから迎え撃ちましょうと、お公家さんに進言したけれど、却下。それくら地形は戦争には重要です。
それでも楠木正成は兵庫の会下山から足利軍を見下し、少ない軍勢で天皇家を護るために戦い通した、その作戦名が「菊水作戦」。新田義貞軍が船で上陸する足利氏側の細川軍を退けてさえいれば、という意見もありますが。神戸は六甲山系があり挟み撃ちにされたら孤立して逃げ場所がないのです。
戦争で島を取りに行くのはなぜ? を考えればわかりやすい。なぜ台湾をとりに行く、そして沖縄をとりに行くの。その沖縄を護りに行った日本海軍の作戦も「菊水作戦」。
我が衣手は露に濡れつつ
天智天皇自らの手で田植えをなさっている。農民も天皇もおんなじように田んぼで稲を栽培して、自らの糧を得る。そして「衣干すてふ あまのかぐやま」持統天皇は自ら春になったので衣替えだから、冬衣を干されるんですよ。
天皇家のお住まいが城壁で囲まれていますか、他の国のように要塞化してますか。そして、私たちとおんなじように稲を育て、洗濯もんを干す、その光景が詠まれているのが百人一首。おそるべし日本文化ですよね。それに一千年以上前から女性も天皇に成れるお国柄だった。
日本では不二の高嶺、つまり一握りのトップはどうなのか? 富士山のお山は登った方は分かると思いますが、花や木ひとつない「こうや」。リーダーはただ一人こうやで、孤立無援であっても民のために奮闘する。そんなリーダーでなければ誰もついて行こうなんて思わない。
こうやのふじ
そうです、こうやといえば高野山を開いた弘法大師空海。大陸から漢字が来るまではひらがな表記だった、その意味分かりますか? 音だけ聞けばこうやは荒野にもとれるし、広い野原にも取れるし、高野山の高山にも取れる。これが日本語ですね。
百人で一首っておかしい? と思いませんか。このなまえ。つまりは百人の日本人のおもひを一首に詠んでいるという意味だと私は解釈します。百人一首は500年もの長い時代をかけて詠まれた歌をまとめています。だから、例えば絵札の絵が時代考証に合っていないという人もおられます。それは事実でしょう。
天皇家しか使われない畳の縁を飾る「繧繝錦」と呼ばれるカラフルでひし形、棒縞などの文様を織り出した織物を使った繧繝縁/うんげんべりが各時代と合わないとか。しかし、一千年以上前に歌われた歌を、時代に関係なく今でも私たちは詠う。
ちなみに、敷居や畳の縁は踏んではいけないし人の生き死にに関わることをとやかく言わない、まずそんな無礼なことはしないのが日本人。ます死者に対して拝むのが私たち。それすらとやかく言ってくる人たちが隣国ですからね、人に対するおもひ、しんねが根本違うのです。
あまの原 ふりさけみれば かすがなる
そう詠った阿倍仲麻呂/文武天皇2/698年〜 宝亀元/770年。遣唐使に成った、今の検討するだけのバカな政治家とちゃうよ、いやこれも時代を超えたかけ言葉かも。
中国に渡った阿倍仲麻呂はどうなったか? 意外と知られていませんが、当時の中国の今でいう官僚試験・科挙にトップで通ってしまい、中国を栄えさせるために官僚としてご奉仕し、かの地で亡くなられた。つまりは770年代の中国を操っていたのは日本人なのだ、それでいいのダァ。
500年にもわたる和歌によるシンフォニー『小倉百人一首』が広く親しまれるようになったのは、それが”歌かるた”として用いられたことで現代まで続いています。鎌倉時代に選ばれた日本の自然を詠った歌が、今の時代も通用するのがこの日本のお国柄ですから。
001〜024番までの歌は、 万葉集の時代~平安時代までに詠われた作品。
025〜049番までの歌は、平安時代前期に詠われた作品。
050〜069番までの歌は、 平安時代中期に詠われた作品。
070〜086番までの歌は、 平安時代後期に詠われた作品。
087〜100番までの歌は、 平安時代末期~鎌倉時代初期に詠われた作品。
あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の
柿本人麻呂/斉明6/660年〜神亀元/724年は、ひとかどの地位にあったのですが、さらなる高みをめざして、精進されていた。そのために、一人邁進していた。だから「長々し夜を ひとりかも寝む」なんだろうなぁ。
でもなぜさらなる高みを目指したのか、それはこの国を豊かな国にしようとしたため。リーダーはこうでなくてはならない、と言う見本で百人一首の天皇さんの1、2番の次、3番目にきているこの歌。ただ柿本人麻呂がどのような人物だったかは定かではないらしい。
私はわざわざ持統天皇の次に来ていること、そして恋の歌が三番目に選ばれていることをおもえは、持統天皇を愛していたのが柿本人麻呂ではないかと。しかし天皇家との恋は、公にされることなく「ひとりかも寝む」なんだと。
そして、なんで明石におまつりする神社があるのか? 「ほのぼのと 明石の浦の朝霧に 島隠れ行く 舟をしぞ思ふ」と人麻呂が詠んだから。また、掛詞? ひとまるという地名も明石には残っている。日本語はひらがなで書いてあるといくようにもとれ、そこがおもしろい。
ここ人麻呂神社があるのが、日本時間の根幹と言える子午線・明石の天文台のある人丸町。明石の天文台からは、見下ろせる場所に鎮座します。社伝によれば、仁和3/887年に明石の岡・赤松山にあった楊柳寺/後の月照寺の覚証という住僧が夢まくらに柿本人麻呂の神霊がこの地に留まっているのを感得し、寺の裏の古塚がその塚であることが判明したために塚上に人麻呂を祀る祠を建てて寺の鎮守としたことに創まると言います。
神社に隣接するお寺さんが月照寺です。柿本人麻呂の死去から千年に当たるとされた享保8/1723年に霊元上皇の執奏により正一位の神階と「柿本大明神」の神号が宣下されました。ここに来られると不思議に思うのが人麻呂神社さんと月照寺さんの部分が小高い丘になっている。まるで古墳のような形で、個人的にはここは古墳じゃなかったのかと。お隣の垂水にある五色塚古墳のように。そしてこの丘には「亀の井」という延命長寿の水が湧きます。
神社でガメラのような亀の石碑がありますが、その亀に似ているもので「亀の井」のガメラの方が古いそうです。
行くれて木の下かげを宿とせば
花やこよひのあるじならまし、ここ人丸町にはもう一人の歌の達人がいらっしゃる。それは一の谷の合戦で源氏軍に追われこの地で討たれた平 忠度/たいら の ただのり。文武に優れた平忠度は歌人としても優れており藤原俊成に師事。
なんと彼は神戸須磨での合戦の前に京都へ馬を走らせて、自分が描き貯めた和歌の巻物を歌の師匠である藤原俊成に手渡しに。俊成は決死を覚悟している忠度の背を観て涙したと語られています。『千載和歌集』には「さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな」が忠度の歌として載っている。ただし源氏の時代であるため権力側の事情で「読みひと知らず」、世の中ってそんなもん。
柿本神社/通称人丸神社 ご祭神/柿本人麻呂(斉明天皇6/660年-養老4/720年3月18日)辞世の句「かも山の岩ねし枕けるわれをかも 知らにと妹が まちつつあらむ」享保8/1723年には正一位の神階と「柿本大明神」の神号を宣下され、皇室や歴代の明石城主の崇敬を集めた神社さん。江戸時代の神社仏閣番付では行事役として別格の扱いを受けています。〒673-0877 兵庫県明石市人丸町1−26 開門/24時間 ただし丘の上でお墓も多く、出ます。アクセス/山陽電車「人丸」駅下車10分