吉田山は京都では京都大学のある場所と。アウトサイダーのような、日本の位が高いところにつく職業の東大さんとは一味違う、ホントに頭がいい人って京大や阪大を出た人だよなぁと言われます、関西では😄
その京都大学のお隣にあるのが吉田山さん。初めて行った時にはなんだか日本とは違う、半島系の雰囲気を感じました。階段を登り山に行くといろんな神社が。ここが京都の町中かとおもうくらい自然な気が漂います。
ここから横を見ると大文字焼きの「大」↗︎の文字がよく見えます。神楽岡の地名通りの丘ですから、神様の集いし丘をお散歩と。おいなりさんをはじめ、色々な神さんと出会えます。一の鳥居は京大側↙︎からにあります。
非公開の斎場所大元宮
日本の神社ってこんなカタチという感覚が覆されるのがここ吉田神社の【斎場所大元宮】 今では吉田神社の末社としてのぞんざいな扱いですが、ここが本拠とも言えます。
かや葺屋根の神殿は慶長6/1601年の建築で、平面上八角形に、六角形の後房をつけた不思議なカタチ。このカタチは密教、道教、儒教、陰陽道などを結合させようとした、吉田神道の理想をカタチとしたものと言われています。ただ今はここが本宮ではありません。
普段ほとんど非公開で正月3日間、節分祭、毎月1日に限り、特別参拝可能です。吉田神社の知る人ぞ知るパワースポットとも言われています。
もともとは藤原氏の神さん
天皇家に嫁がせることで公家としての権力を持っていた藤原氏。奈良時代は春日大社が藤原氏が氏神とする神社でしたが、奈良から京都へ遷都したので、平安京での藤原氏の氏神さまとして貞観元/859年勧請したのが吉田神社です。ですから神さまのお使いは、もちろん奈良の鹿?!
京都の前の都、長岡京には京都大原野神社が藤原氏が氏神とする神社です。
藤原山蔭が一門の氏神として奈良の春日大社四座の神を勧請したのが始まりです。延長5/927年にまとめられた『延喜式神名帳』への記載はないので天皇家との繋がりがある神社ではなく、式外社と言われています。ただ、その後時の権力で、格式は上がります。正暦2/991年には二十二社の前身である十九社奉幣に加わります。
全国の延喜式内社3,132座が結集
鎌倉時代以降は吉田氏が神職を相伝するようになり、室町時代末期に吉田兼倶が吉田神道・唯一神道を創始します。天正18/1590年に天皇家を守るための宮中の八神殿が斎場所大元宮の後方に遷され、慶長14/1609年から明治4/1871年まで儀式が執り行われていました。そのため江戸時代には吉田家は全国の神社の神職の任免権などを与えられ、幕末に至るまで神道界に絶対的権力を持っていたのです。
明治時代になると神道裁許状の特権は剥奪されて、国家神道によって神社界は伊勢神宮がその中心となってしまい、吉田神社は官幣中社に。つまりは国家として神道というのは、明治昭和時代に出来上がってしまったんですね。お寺と神社を無理くり分けて、神さんと仏さんを同時に祀っていた江戸時代までとは隔絶させてしまった。このことが良かったのか? 悪かったのか、、
全国の神さまを祀るため、ここに参詣すると全国の神社を詣でることになると言われています。
斎場所大元宮〒606-8311 京都府京都市左京区吉田神楽岡町30 大元宮
吉田神道の教義により宇宙軸を現す大元宮は、始まりの神/虚無大元尊神を中心に祀り、そこから生まれ来る八百万の神々を祀る事で、全国の神々を祀る社として有名です。
開門/24時間