戦国武将がこぞって武具を奉納した大神社
愛媛県今治市大三島に鎮座する「大山祇/おおやまづみ神社」。なぜ瀬戸内海の一つの島にある神社が超チョウ有名なのか? それは名だたる武将たちが自分を守ってくださった武具を奉納し、その恩恵に祈りを捧げたから。今では「国宝の島」と呼ばれています。神の島と言われている大三島では、殺生は許されていません。魚を捕ることでさえ長らく禁忌とされていました。
日本の国宝・重文指定された甲冑の約半数がこの大山祇神社に集まっています。全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社で、大三島の名前の由来「三島大明神」とも称されています。ご神体は鷲ヶ頭山/わしがとうさん、標高436.5m↓。大三島は面積64.54km2の瀬戸内の島ですが、尾道からのしまなみ海道の橋で今では繋がっており、地理学的には岬です。
愛媛県の島ですが、位置的には広島県竹原市に近く、竹原からフェリーが往来し、25分で本州から到着します。瀬戸内の島々はどこもそうですが温暖で降雨が少なく、この大三島も水に困っていました。しまなみ海道の橋により本土から水道管がひかれています。同じように淡路島も明石海峡大橋によって神戸から水がひかれているのです。これが日本の底力、インフラの凄さですね。
瀬戸内の神の島大三島
神社にはクスノキが神木としてあります。ここ大山祇神社には国の天然記念物にもなっているクスノキ群があります。この周辺がクスノキの原生林として指定されています。奥の院には根元を人がくぐれる『生樹/いききの御門』と呼ばれとる樹齢三千年のクスノキがあります。
境内にも何本ものクスノキがあります。樹齢を観て驚きます。推定樹齢3000年の日本最古のクスノキ「雨乞の楠」。また「小千命御手植えの楠」は樹齢2600年。「願いが叶うクスノキ」とも言われていてパワースポットとしても有名です。ここに来ると勝ち運がつくと言われているのです。
688年ぶりに再建された大山祇神社総門が2010年完成。約3億2000万円の総工費で製作された総ヒノキ製の総門↑。高さ約12メートル、幅10メートル、奥行き5メートルと両翼舎。
水軍の女武将・つる姫
大山祇神社に、胸の部分が膨らみ、ウエストの細さを強調した優美なデザインの甲冑「紺糸裾素懸威胴丸」があります。
戦国時代、三島水軍を率いた女将軍・大祝鶴姫/おおほうりつる姫が着用した甲冑とされ、これを着て16歳から18歳という花の盛りの時期に「われこそは三島大明神の使いなり」と最前線で戦かいました。つる姫は物部氏につながる伊予国の名門大祝(おおほおり)家の娘。神の島、大三島の神主を代々受け継ぐ家でした。瀬戸内海を三島・河野・村上水軍を使い守っていたのが大祝家。
水軍=海賊のようにイメージされていますが、不法なことをするヤカラではありません。その地域で認められた、監視役であり関所役だったのです。そしてその海賊をまとめ、瀬戸内を和していたのが神の島・大三島の役割。
この時代、中国地方、九州、そして瀬戸内を我がものにしようとしていた周防国の大内義隆がいました。何度も神の国の水軍と戦っています。
つる姫は想いを寄せ合う幼馴染の「越智安成」と二人で、この大三島を守るために水軍を率いて、瀬戸内の島々を守ろうとしたのです。
わが恋は 三島の浦の うつせ貝 むなしくなりて 名をぞわづらふ
天文10/1541年6月、九州の大内義隆は瀬戸内海を征しようと3度目の大三島へ出陣。この時も三島・河野・村上水軍でむかえ撃ちます。しかし数では勝る大内軍についに後退を余儀なくされます。その時に越智安成は愛するつる姫を逃がすために、大内軍の中に船を突入させたのです。
この捨て身の進撃によって、相手の将船に突っ込んで敵艦隊を水没させます。しかし越智安成は戦死。
つる姫の兄は「これは大明神のご託宣だ」と戦いを終わらせる道を採り、大内氏の軍門に下ることを表明します。
しかし、つる姫は残りの船を引き連れて夜襲をかけ出撃するのです。越智安成の弔い合戦、不意をつかれた大内軍は敗走。三度目の正直には成らず大内氏は敗退、つる姫は大三大明神に戦勝を報告。祈りを捧げたつる姫は、想い人を失った失意から一人船を漕ぎ、越智安成が眠る海へ。享年18歳のつる姫。
大山祇神社〒794-1304 愛媛県今治市大三島町宮浦 宮浦 3327