源氏の陣地であった神戸須磨寺
大好きな落語家・柳家小三治さんの落語を聴きに行った時にまくらで「『暁寒き須磨の嵐に聴こえしはこれか』の青葉の笛を観たいと思って須磨寺に行ってきたんです」と、落語のまくらに延々と平敦盛と須磨寺のお話が続き、その時の落語は何を聴いたんだか忘れてしまうほど。
神戸で教育を受けた身としては、これほどまで郷土がまくらで熱演されるとウレシい限りで聴き惚れていたのですが。平敦盛と熊谷直実の史実は日本人の心を揺さぶるものがあります。
今の時代こそ「名をなのれ」
今の子どもはチャンバラなんてしないので解りませんが、チャンバラの始まりの合図が「名を名のれ」でした。今の時代ではブーブーですね「個人情報保護の観点から個人名はお知らせできません」と言うと勝負にはなりませんね。それをいいことに、一個人をコテンパンにSNSで叩き潰す今の時代。匿名と言う恥じるべき行動は下のゲ、日本人はしない。アプリをインストールさせて、住所録から全ての情報を抜き取る国家だって存在するのが下の世界。武士はそんなことは決してしない。正々堂々と名をなのり対峙する。それが人と人の間の基本。それを忘れた人が多過ぎますね。
「敵に後ろを見せるは卑怯なり。返せ返せ」と須磨の浜で呼び止められた平敦盛。振り返り「ならば」と熊谷直実に一騎打ちを挑みます。元々は平家側の武士であった直実は源氏側に寝返り、認められるために手柄が欲しかった。今の時代の拝金主義のヤカラとなんだかこの点は似てませんかねぇ。須磨の浜に来た時には、平氏は船に乗り海へと。ただ一人波打ち際に立派な鎧を着た武将がいる。そして声をかけた。
「いざ勝負」
勝負を挑んだものの平敦盛は、あえなく熊谷直実に倒されてしまう。直実が首をかっ切ろうと兜を取ると、なんとまだ少年、自分の子どもと同じくらいの年恰好。戸惑っている直実に「あなたに名のるのはよしましょう。あなたにとって私は十分な敵です。どなたかに私の首を見せれば、きっと私の名前を答えるでしょう」と。この武将の命を討とうが討つまいが、戦の勝ち負けに関係はない。助けたいと思った直実が後ろを振り返ると、梶原景時ら源氏の軍勢がすぐそこまで近づいている。
逃したとしても平敦盛は逃げられまいと悟った直実。「同じ事なら、直実が手にかけて、後のご供養をお約束します」と。首を武者の鎧で包もうとすると、その腰に一本の笛がさしてあるのに気づきます。あ、と気づくのです。「須磨の敵陣から聴こえていたのは、この笛の音色だったのか」。
源氏の陣地であった須磨寺に、首と笛を持ち帰った直実。大師堂前の池でその首を洗い、その前の大きな松の木に腰をかけた源義経が首の実検を行いました。「このお方は平清盛公の弟、平経盛公の子、従五位の敦盛公である」と。
一の谷のいくさ破れ、討たれし平家の公達あわれ
息子ほどの年齢の若者の命を奪ったことによって、戦の無情さや世の無常観を感じ、心に深い傷を負った熊谷直実。結果を出しても源氏の世の中では認められない現実に直実は源頼朝の目前で髪を落とし、出家します。「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説いた法然に弟子入りし蓮生/れんせいと名乗り、京都・東山で修行を重ね、自分が討った平敦盛の供養をしたのです。これが人としてのあたりまえの姿。
この平敦盛を好きだった武将が織田信長。信長が語ったとイメージ操作されている言葉「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり」。この言葉は実は幸若舞『敦盛』における、無常の世を儚んで出家する熊谷直実の言葉の一節です。今は便利な時代でYouTubeで幸若舞『敦盛』が観ることができます。
「下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり」って暴走族の女の子のつなぎの背に書かれていたのを思い出します。今思えば20歳前後の子が、イキって(いきがる、これは意気と粋の二つが入ってます。播州弁です)たんですから、スゴイよなぁ。今の時代、なんかイキってないもんなぁと。
ただ「下天の内をくらぶれば 人生90年夢幻のごとくなり」こうした物語は口伝であり、また演出もあるでしょうから、その時代で「人生50年」と言われたり。ホントに織田信長が熊谷直実の言葉をもして、アレンジに「人間五十年」と付け加え言ったのかもしれません。でも今の時代は人生90年(^○^)まぁそんなもん。
全く須磨寺のお話がでてこない、それでいいんです。聴きたい人は柳家小三治さんの落語を聴いてみて。この平敦盛の物語は、日本人なら心に響かない人はいないでしょ。これこれ。『平家物語』で一番涙を誘う哀話である「敦盛最期」を読んで、いざ須磨寺へ。
須磨寺のこと
須磨寺はWikiにはB級スポットなどとホントに無礼な書き方をされています。まぁ今のネット情報などは現地に行きもしないで、見てきたように嘘をいう類。大本山で大きなお寺の須磨寺の門前町に民宿があると出てますが、民宿なんてありません。私の友達の家はありましたが😁 そこが高校球児の宿泊所になっているとの記述も多分勘違い。
須磨寺池の周りは昭和時代まで温泉旅館が軒を重ねてあり芸者さんもいらっしゃったくらいです。同級生のお母さんはその芸者さんでした。今は寿楼一つしか残っていません。その温泉街の旅館が甲子園へ出場する高校球児の宿泊施設になっていたことは事実(昭和40年代)ですが。この須磨寺温泉には、お墓が須磨寺にある映画評論家の淀川長治さんがよく宿泊されていました。
青葉の笛は須磨寺の宝物として保管されています。弘法大師・空海が唐へ留学中、長安の青龍寺にある「天笠の竹」から作り上げたとされています。帰国後に嵯峨天皇に献上され「青葉の笛」と名付けられました。その後皇室から平家の手に渡り、平敦盛の愛笛として歴史に刻まれています。
大本山須磨寺 真言宗須磨寺派大本山。山号は上野山(じょうやさん)。本尊は聖観音。〒654-0071 兵庫県神戸市須磨区須磨寺町4丁目6−8