どっちで、転ぶ人の運
なぜ戦国時代の武将たちが今の世の中でも語り継がれているのか。それは歴史を知って歴史をうまく使えば成功すると考える人がいたりするから。また負け戦だと知りながらも、忠君のために飛び込んでいくつわものの義をわがことのように感じる心。その身に、我が身を映すのが人の常だから。運なんて、たまたま、偶然の産物。だから確率論なんてのがあるわけだし、ギャンブルに人は熱狂するわけ。
岡山城は元は西軍の宇喜多秀公↓によって築かれたお城。豊臣秀吉から「秀」の字を与えられ、豊臣秀吉の猶子となり、養子と同じように厚遇を受けます。前田利家公の娘である「豪姫」を正室として迎えます。宇喜多秀家は外様大名でありながら、豊臣秀吉の一門衆として重用されます。

西軍の中心人物だった宇喜多秀家
秀吉公が亡くなったのちの慶長4/1599年、あとを追うように義父の前田利家公が死去。「豊臣秀頼」の後見役だった前田利家公が亡くなったことで、豊臣家で派閥抗争が表面化し、権力闘争へと。これもたまたま、偶然が重なる。頭角を現してきたのが、豊臣五大老のひとりだった徳川家康公。
決着は「関ヶ原の戦い」
西軍・宇喜多秀家軍と東軍・福島正則軍とは互角の戦い。そこを破ったのが、と言うか、、豊臣氏の一門であった「小早川秀秋」の超裏切り行為。小早川秀秋が、突如東軍に寝返って、自陣である松尾山から襲ってきた。
こともあろうか、「朽木元綱」「赤座直保」「小川祐忠」「脇坂安治」も寝返り、自陣の西軍の大谷吉継公に後ろから攻撃を仕掛けます。こんな事は政治の世界では今でも当たり前、安倍晋三首相政権の時「公約を守れ、消費税引き上げ反対」と鉄砲を後ろからぶっ放したのが第102代内閣総理大臣・石破茂。彼は総理になった途端「私は下民との約束、公約など守らない」 と公言。
背後から敵に襲われることは、負けと言われます。後ろから攻撃されると言う同じようなことは、足利軍を追い詰めていた天皇家の錦の御旗頭・楠木正成公の忠義の戦い「湊川の合戦」でも起こった。足利側細川水軍に楠木の後ろを守る新田軍が敗れて、形勢が逆転したと。
そのためにそうした事をも想定して守ってもいますが、大谷吉継は宇喜多秀家を守りきれずに自害します。宇喜多秀家軍は両方から攻められて決着した「関ヶ原の合戦」。戦いといってもねぇ、裏ではいろんなことが起きている。それが日本民族のあり方、関ヶ原は正々堂々と正面きっての対決ではなかった。現代の関ヶ原に行けば、殺伐とした風景がそれを物語る。
教科書では控える毛利軍が、東軍池田輝政軍と対峙しながら、動かなかったことが一番の要因と言われてはいますが。
裏切った結果、岡山城は寝返った「小早川秀秋」が、徳川家康時代の城主となりました。

うまく時代の波に乗った小早川秀秋
数奇な運命の城
小早川秀秋の死後は、池田家が明治維新まで城主を務めます。姫路城のように増改築され、「西の丸西手櫓」、「月見櫓」、「御後園、のちの後楽園」などは池田家が城主となってから作られています。ちなみに今の世界遺産・姫路城の形を造ったのは、徳川家康に挑んで行き、そのことで家康公から気に入られて姫路藩主となった池田輝政公です。

姫路城
池田家は羽柴方と徳川・織田方の反目の中「長久手の戦い」でどちらにつくかで苦心惨憺した一族。ちなみに【裏切る】の語源は、温羅・うらを同志であった出雲族がウラを切ったから。その温羅の末裔と言われる池田家は、裏切り行為だけは許せなかった。そんな葛藤のなか、、
双方に義があるなら、この国のためになる政権中枢を支える方へと羽柴方に加担する。「上方御一味」と池田恒興公は羽柴方につくことを決断。当初は岐阜・犬山城を徳川・織田方から奪取するも、長期戦となる。池田家の運命を大きく変える「三河中入」という、愛知・岡崎からの家康方への補給路を断つ大胆な作戦を決行。
小牧山山頂から徳川・織田方から監視される中、羽柴方の作戦は行われ、海からは伊勢志摩の九鬼水軍が岡崎を攻め入る体制に。しかし勝ったのは、徳川・織田方。この戦で父・池田恒興、兄・池田元助を亡くした池田輝政公。徳川家康はこの戦は、池田恒興、池田元助、森長久の三武将を退ければ勝ちと。
家康が戦後処理をしていた所に、当初は徳川方につくと思われていた池田家、その次男坊である池田輝政は徳川方の伊木軍の中にいたのだ。まぁ言ってみれば人質のような形。そこから家臣を連れて徳川家康憎しと出撃した池田輝政。二人の武将の太い糸がこの時紡がれたのです。西側だった池田家は、徳川家にとっては外様、しかし家康はその池田家の気に一目置いた。同じことは加賀前田家にも言えますよね。こうしたことを学ぶべきです。
明治時代に入ると文明開化の名の悪法により、岡山城は解体。天守・石山門・月見櫓・西の丸西手櫓のみが残りました。堀も埋められたのです。
そして昭和20/1945年7月のアメリカ軍爆撃により岡山城天守・石山門は全焼。焼け残っていたのは月見櫓、西の丸西手櫓、後楽園の廉池軒の建物だけと言われています。
昭和39/1964年から二年の歳月をかけ、岡山城天守再建工事が行われ、鉄筋コンクリート製ではあるものの、かつてと同じ姿が取り戻されました。岡山城の特徴の一つが情報量の多さ、その展示内容の充実度には驚かされます。洪水から城の周りを守るための百間(180メートル)川という放水路を建設。江戸時代の優れた河川工事の歴史が、現代の西日本豪雨災害の時でさえ機能したことなど知って「へぇ、そうなんだ」と。
城といっても天守閣だけがあるのがお城のように考えられていますが、ここ岡山城はそのほかの建物と連動した複合体の美しい城です。複合体の城として有名なのは、岡山藩のご先祖でもある池田輝政公が造った姫路城。元は天守閣だけだったものに、お屋敷のような機能も持たせ、そして防御設備も持った建物を付随していったのですね。
天守閣には魔除けとして「金のシャチホコ」や「金の桃」の瓦があります。桃といえば桃太郎の岡山を代表する果物。
桃太郎が挑んだ鬼は、岡山の温羅一族だと言われてもいますね。
そして城の横を流れる川で、どんぶらこと桃のボートがオススメです。広々とした城内と日本庭園公園なので一日楽しめます。初掲載日/令和七年2月9日
岡山城、別名は烏城、金烏城 岡山県岡山市北区丸の内2丁目3−1
開門時間/ 9時00分~17時30分 定休日/年末(12月29日~31日)
入城料/大人(高校生以上)400円、小・中学生 100円 ※未就学児は無料
アクセス/JR岡山駅から路面電車(東山行き)約5分「城下」下車、徒歩約10分
または、藤原団地行きバス約15分「後楽園前」下車、徒歩約5分