阿弖流為/アテルイと東北の豪族・母禮/モレ

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阿弖流為/アテルイと東北の豪族・母禮/モレ阿弖流為/アテルイと東北の豪族・母禮/モレ

意外と知られていない蝦夷のアテルイとモレ

北海道をえぞと言うので、北海道と間違えている人も多いのが「蝦夷征伐」。奈良から平安の時代に、東北の地はまだ統合されていなかった。日本は関東圏くらいまででそれから北は、朝廷の思いのままに税金を取ることができなかったわけですね。朝廷、公家たちの言うことは知らん、お前たちのお給金のためになんで税金を払わないといけないのだ。まぁいつの時代もそうですね。阿弖流為/アテルイと東北の豪族・母禮/モレ

京に都をおかれた桓武天皇の時代、朝廷は日本をだいたいひとつにまとめ治めていました。 あとは、東北の陸奥の国方面だけとなり、桓武天皇の時代になって手を延ばし始めたのです。蝦夷の住む陸奥の国には、 魚や鳥・獣がとれ、農業もでき、その上砂金も出る豊かな土地なので、自分たちで十分暮らすことができ、一緒になろうという朝廷と考えが合わず、度々衝突して 勝ったり負けたりを繰り返しのです。阿弖流為/アテルイと東北の豪族・母禮/モレ

朝廷は神亀元/724年に宮城県仙台市東北部に多賀城を築き、陸奥の蝦夷攻略の拠点としました。天平21/749年に陸奥の国で初めて金が取れ、聖武帝は年号を天平感宝と改元するほどの慶びでした。宝亀5/774年から弘仁2/811年まで朝廷と蝦夷の戦いは38年も続きます。戦艦大和の乗組員だった親類から「東北の人は粘り強くて最後まで頼りになる」と聴いたことがあります。あぁ1300年前からそうだったんだと。阿弖流為/アテルイと東北の豪族・母禮/モレ

自分はどうなっても構わない、だから民を救ってくれ

有名な「北上川の戦い」では、朝廷軍の紀古佐美/きのこさみは、五万人の大軍を率いて蝦夷の中心地「胆沢」に向かいます。相手の大将・阿弖流為/アテルイは土地の様子がよく分かり、豪族・母禮/モレの手助けで北上川を渡ろうとする朝廷軍を散々に痛めつけ、大勝利を収めます。

桓武天皇は、二度目の戦いは十万の兵と副将軍・坂上田村麻呂の活躍で、北上川沿いの胆沢を攻め落しますが敗退。田村麻呂は人として思いやりがある方で、戦いのときには部下はみんな命を惜しまず彼のために力を尽くしたと言われています。 三度目の戦いでは、坂上田村麻呂は征夷大将軍になり四万人の兵を率いて戦い、勝利を収めます。

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近くを流れる淀川の支流穂谷川、向こうはおけいはん「牧野」駅

「これ以上戦うのは、人が死んでいくだけで無謀だ」と考えた蝦夷の大将・阿弖流為と豪族・母禮は、五百人あまりの蝦夷兵を引き連れて「降参します」と和平交渉に坂上田村麻呂の元を訪れます。この降伏を聴き入れ田村麻呂は、阿弖流為と母禮を連れて京の都へ戻ることに。その道中で、阿弖流為から「自分の命は捨てても、どうにかして、蝦夷のみんなを救い、 幸せにしてやりたい」という願いをしみじみと聴いた田村麻呂。阿弖流為と同じ言葉をアメリカ占領軍GHQに言ったのが昭和天皇。この気持ちは日本人にしか解らないんだろうなぁ。

阿弖流為/アテルイと東北の豪族・母禮/モレ

公園は住宅地の中にあります

GHQ は何をしたか、アメリカで余り腐りかけた食糧によって日本民族を根絶やしにしようと考えた、War Plan Orangeオレンジ計画のさらなる実行、日本民族を根絶やしにする。それが学校の給食制度、小麦なんて大東亜戦争以前までは食べたことがなかった日本人にパンと脱脂粉乳、そして植物油づけにした。今西洋諸国ではグルテンフリーなんて言ってますが、グルテン漬けにされた日本人はどうなったか? ガンが増えて、アトピーが増えて、病気だらけになった。

それまで主食だったお米を食べさせないわけだから、これは酷い。これによりガン患者が日本では急増、溢れ出しアメリカの製薬会社のガン薬で薬漬けで儲かるシステムを作り出した。挙げ句の果てにアフラックのガン保険で、心配性の日本民族から金を巻き上げるシステムを作り出したのがユダヤ資本。ガン保険って日本の保険会社が作ってはいけないんですよ。原爆作って虐殺したのもユダヤ。コロナでのワクチン政策もこの一環。そのユダヤ人をドイツから護ったのは、どこの民族なんだ? 全ユダヤ人、こたえてほしいわ。

おまけにアフラックは東北大震災のあと『神の思し召しで地震が起こったのだ』と言いはなった。もう人として最低、下の下です。まぁ西洋人が信じる神様なんてその程度。阿弖流為/アテルイと東北の豪族・母禮/モレ

「昨日の敵は今日の友だ」

都に着くと天皇や朝廷に「二度と戦う意思は持っていません。だから、陸奥へ帰してあげてください」と必死に阿弖流為と母禮の命乞いを田村麻呂はしたのです。たとえ敵であったとしても助けようとする心意気、これが日本民族。先の戦争でも同盟国であるドイツの顔など知らん顔で、ユダヤ人にビザを出し続け日本経由でアメリカへと。

しかしユダヤ人の末裔たちはこんな事実も知らん顔で日本という国を潰しにくるのですから、まぁ民族性というのはおそろしいものかもしれません。他民族に親切にするのもほどほどにという気持ちすら湧いてくるのです。阿弖流為/アテルイと東北の豪族・母禮/モレ

騎馬民族であったアシュケナジムユダヤ人は、自分たちは優秀なんだから劣っている人を殺すことなど屁とも思っていない。狩猟民族や農耕民族の村々を襲って、根こそぎ食糧や女性を収奪するのが騎馬民族だから。世界には他から奪うことしか考えない民族が居る、知っておかなければならないですよね。「和をもって尊しとする」なんてこの阿弖流為と母禮の行動のように日本民族以外には理解できない物語。

ただねぇ、日本には「恩をあだで返すと、恨みを買い天罰が降り、地獄へ落ちるよ」とユダヤ人をはじめ、迷惑な隣国に言ってやりたいですね、閻魔大王さまはあなた方をよぉく観てらっしゃるよと。そうしないのも日本民族ですが、和を尊ぶ、これ他の民族は理解できないんでしょうか。日本には怨霊を鎮めるためにお祭りをするのですよと。阿弖流為/アテルイと東北の豪族・母禮/モレ

まろにとっては、陸奥で採れる砂金さえ手にはいればよいのじゃぁ」と、征夷大将軍という高貴な身分でもある坂上田村麻呂公の願いなど、どこ吹く風。朝廷の公家たちは誰も聴き入れてくれません。誰のおかげで東北を統合できたのか、あぁいつの時代も政治行政お役人さまは自分の暮らしむきさえよければよい、まるで病気なので注射打ちましょうね😀

阿弖流為と母禮は、延暦21/802年8月13日にここ「河内国交野郡宇山」で 斬首、命を落とすこととなります。阿弖流為/アテルイと東北の豪族・母禮/モレ

昭和、明治、応永、平成に次いで、歴代で5番目に長い「延暦の時代」は、不穏な空気の時代。あらぬ罪を着せられて早良親王廃太子、淡路島へ島流しの途中、食を断って薨去。のちに早良親王は死んだ後、崇道天皇となるのですが。 そんな策略蠢く平安じゃない時代だからこそ、京都に「平安京」を遷都。しかし富士山が噴火し関東は火山灰で覆い尽くされる。天からは星がここ交野の地へ落ちてきます。空海、最澄が心を救うために奔走した時代でもあります。しかし最澄は権力側に寝返った、それゆえ空海さんは最澄を嫌った。密教の根本を教えなかった、それを権力者に利用されることだけは避けたかったから。いつの時代も我がの利益だけ考えて、後世の日本民族のことなどどうでもえぇという人たちは出てくるもんです。現代なら独裁者の国に媚び売る河野や小池でしょうか。阿弖流為/アテルイと東北の豪族・母禮/モレ

世の中に たえて桜のなかりけば 春の心はのどけらからまし

こう歌ったのは在原業平。ここ牧野の桜は、在原業平が惟喬親王ととも狩りの後に渚の院をたずね、咲き誇る桜をみて歌ったものです。この後、在原業平、行平兄弟は藤原氏の陰謀により左遷させられます。とんでもない時代に生きた人たち、しかし自然をめでて和歌を詠む心いきがあるのが私たち日本人。愛する人が幸せに歌をうたっていて欲しいと、いつの時代も願うのが私たち。

牧野公園は、桃山時代の華麗な建築を伝える『片埜神社』の北側↑にあります。片埜神社の神域は明治の頃には5ヘクタールほどあり、大阪歯科大学付近の松林はその面影を残しています。 戦後、広い神域の一部を譲り受けて牧野公園を造営。桜の季節には桜が咲き競い、市民の憩いの場になっています。お墓ですから、何もないところです。駅前まで行かなければ、お店もありません。私は駅前の洋菓子屋さんで美味しいお菓子を買ってきてここで食べました。片埜神社さんはえびすさんのお宮です。関西ではお馴染みの、商売繁盛、開運を祈願する神社さんです、ぜひお参りを。えびす恵須は、一説にはイエスの代わりとも言われてもいます。阿弖流為/アテルイと東北の豪族・母禮/モレ

その牧野公園の山桜の咲く根元に「アテルイの首塚」と伝えられている自然石があります。

アテルイ・モレの碑文に記されている文面

『八世紀末頃まで東北・北上川流域を日高見国/ひたかみのくにと云い、大和政府の勢力圏外にあり独自の生活と文化を形成していた。政府は服属しない東北の民を蝦夷/えみしと呼び蔑視し、その経略のため数次にわたり巨万の征東軍を動員した。

阿弖流為/アテルイと東北の豪族・母禮/モレ

京都清水寺

胆沢/いさわ(岩手県水沢市地方)の首領、太墓公阿弖流為/たのものきみあてるいは近隣の部族と連合し、この侵略を頑強に阻止した。なかでも七八九年の巣伏/すぶせの戦いでは勇猛果敢に奮闘し征東軍に多大の損害を与えた。

八〇一年、坂上田村麻呂は四万の将兵を率いて戦地に赴き帰順策により胆沢に進出し胆沢城を築いた。阿弖流為は十数年に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、同胞五百余名を従えて田村麻呂の軍門に降った。阿弖流為/アテルイと東北の豪族・母禮/モレ

田村麻呂将軍は阿弖流為と副将磐具公母礼/いわくのきみもれを伴い京都に帰還し、蝦夷の両雄の武勇と器量を惜しみ、東北経営に登用すべく政府に助命嘆願した。しかし、公家達の反対により阿弖流為・母礼は八〇二年八月十三日河内国で処刑された。阿弖流為/アテルイと東北の豪族・母禮/モレ

平安建都千二百年に当たり、田村麻呂の悲願空しく異郷の地で散った阿弖流為・母礼の顕彰碑を清水寺の格別の厚意により田村麻呂開基の同寺境内に建立す。両雄もって冥さるべし。』

阿弖流為・母礼の顕彰碑

阿弖流為・母礼の顕彰碑が清水の舞台下にある清水さん

阿弖流為/アテルイ(生年不詳 – 延暦21/802年8月13日)
平安時代初期の蝦夷の軍事指導者。延暦8/789年に胆沢(現在の岩手県奥州市)に侵攻した朝廷軍を撃退したが、坂上田村麻呂に敗れて処刑された。史料には「阿弖流爲」「阿弖利爲」とあり、それぞれ「あてるい」「あてりい」と読まれる。いずれが正しいか不明。現代では「アテルイ」と呼ばれる。 坂上田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイだとする説もあります。本名は大墓公阿弖利爲/たものきみあてりい

母礼/モレ (生年不詳 – 延暦21/802年8月13日)
平安時代初期の蝦夷地方に伝えられている蝦夷の豪族・指導者の一人と見られている。『日本後紀』『日本紀略』では磐具公母礼。 アテルイと共に、河内国で処刑されたことが記されています。本名は磐具公母礼/いわぐのきみもれ

阿弖流為と母禮/モレの塚 〒573-1146 大阪府枚方市牧野阪2丁目13−13 

アクセス京阪本線「牧野」駅下車、駅から東南へ小高い丘を徒歩約5分、片埜神社隣りの牧野公園にあります

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