伏木のふしぎ大伴家持@富山湾The Nippon Sea Shore.

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伏木のふしぎ大伴家持@富山湾The Nippon Sea Shore.

あおによし奈良の都は古りぬれどもとほととぎす鳴かずあらなくに

歴史の授業の時の先生がよかったのか、日本史の勉強と同じ時に好きな歌の話も聴いていた。当時、作詞するのが好きで教科書の横に思いついた句を書いていた。「あおによし」と聴くとさだまさしさんの『まほろば』を思い出したりするけれど、この歌を詠ったのは大伴宿禰家持さん/養老2/718年-延暦4/785年。万葉集の中でもっともたくさん歌が掲載されている詩人。伏木のふしぎ大伴家持@富山湾The Nippon Sea Shore.

おおともの やかもちは、奈良から離れた日本海沿岸地域・因幡、越中国守として派遣されてしまう。その時に先生は「この時期から平城京から長岡京、平安京へと遷都までさせる権力を持つ藤原氏が台頭してきます。春日山で辣腕を振るっている橘氏や大伴家持はじめとする勢力は邪魔でした。だからどうしたか? 分かりますよね」と。日本史の時間は私にとっては、社会システムの栄枯盛衰を歌で教えてもらうようなものでした。伏木のふしぎ大伴家持@富山湾The Nippon Sea Shore.

しおじからただ越え来れば羽咋の海  朝なぎしたり船梶もがも

天平18/746年に家持さんは国司として越中(新潟、富山、石川、福井県)に赴任します。5年間国守として赴任されています。「しおじ」とは地名でここから能登半島を一周するように家持さんは視察します。つまりこれから能登半島を自分が責任を持つのだから、どうすれば国が栄えるかを考えてらした。かの国の政治家にでもこの心意気を少しでも持って欲しいもんです。

伏木のふしぎ大伴家持@富山湾The Nippon Sea Shore.

大伴家持の能登半島視察ルート

1300年も前の日本の律令社会では、都の貴族たちが国司として各地に派遣され、その人たちが行政を仕切っていた。そして視察した場所ごとに歌を詠んでいる、それが一千年以上経た今も残り、そして私たちのご先祖さまの自然を愛でる姿を知るわけですね。またこの家持さんの歌は行政官がどう行動したのかを残す、良い記録とも言われています。国守があったのが富山県高岡市の伏木。1300年前から港として栄えていたところです。家持さんが住んだ国守館があったとされる館の跡には、伏木気象資料館↓が建てられています。

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気象台

その気象台があった丘の上には「ふるこはん」の名で親しまれている勝興寺という美しいお寺さんがあります。本願寺を支える連枝寺院の一つとして重要な働きを行ってきました。平成の大修理を終え、美しいお姿です。このお寺さんには「七不思議というパワースポット」があります。伏木のふしぎ大伴家持@富山湾The Nippon Sea Shore.

なでしこがその花にもが朝な朝な 手に取り持ちて恋ひぬ日なけむ

藤原氏の策略で京都から遠く離れて暮らすことになったのか、一説には藤原氏の目の届く範囲ではないところに有能な人物を置いて国を立て直したという歴史家もいます。つまり中央権力である側、藤原氏たちのいいなりに重い税を課せられ、それを中央に吸い上げられて地方が疲弊する。それをさせまいとする真っ当な勢力もあったということですね。今の日本にはないようですが😛

震災後の珠洲

能登半島の突端の珠洲の町は瓦礫の撤去がまだまだ

震度7以上の地震が起こっているのにもかかわらず中央政府は復興補正予算すら計画しないシブチンさ。予算=お金がないから、復興も進まないなんて国家としての程をなしているとはおもえない今の状況を鑑みて、大伴家持さんがどう思われるでしょう。何をしてるんだと、何のための国家なんだと。ふざけてます😡

震災後の伏木

伏木の街中も電柱は倒れそうだし、道も痛んでいた

戦国時代「横目」という、人が裏で何か画策していないかを監視する役目を持った人がいました。告げ口やスパイのような働きをする人を嫌うのが、石川や富山の人たちと聴いたことがあります。実直な藩主であった前田利家公がその代表でしょうね。裏で画策する人間ではないので、織田・豊臣の家臣であった前田利家公を徳川家康公も一目置いたと。

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高岡を走るチンチン電車万葉線

かささぎのわたせる橋におく霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける

大伴家持も時代の流れのようなものとは関係なく、能登の自然を愛し、そこで暮らす人々のことを考えながら行政をする傍ら、数々の歌を残した。芸事が晴れであれば良い、職務はすさまじくおお事であっても。

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万葉線の駅には歌が

彼は陸奥国で没したましたが、直後に【藤原種継暗殺事件】が造営中の長岡京で発生、家持も関与していたとされて、追罰として、埋葬を許されず、官籍からも除名。その後、事件は桓武天皇の皇太弟であった早良親王の廃太子、淡路島への島流しと憤死にまで発展します。人の人生とは死んだのちも悪い方向へいくものなのか。しかし一千年以上経た今も能登の人たちはそんな大伴家持を愛して、こうしていたるところにその痕跡がみられるのは、ほんと人の情とはありがたい。

伏木のふしぎ大伴家持@富山湾The Nippon Sea Shore.

国宝勝興寺

新しき年の始の初春の 今日降る雪のいや重吉事

年の初めの初春の今日降る雪のように、次々重なれ、良き事よ。家持が最後に詠んだとされる歌です。2024年の年の初めに大きな地震が起きてしまいました。震災後の支援に行きましたが、あまり報道などされませんが、伏木の町も液状化現象や電柱が倒れたりしていました。この歌は私には「惑うことなく時の流れは、押し流して行きます。再び戻る時なんてないのだから、今を大切に生きよう」と、そう家持さんが諭してくださっていると。伏木のふしぎ大伴家持@富山湾The Nippon Sea Shore.

国宝勝興寺〒933-0112 富山県高岡市伏木古国府17−1
開門 /9時00分~16時00分伏木のふしぎ大伴家持@富山湾The Nippon Sea Shore.

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