世界最大の木造建築
ひと昔前までコピーライティングの常道として、日本一とか日本三大とかで人を釣っていた。今では最大級とか言う表現に代わったが、おんなじだし+ま。まぁその時代でたまたま、A.R.E.とそれとこれが日本では観ておいた方がえぇなぁと言う程度の観光地が日本三大名所。
三大●●で有名どころは【日本三景】で宮島、天橋立、松島だ。まぁこれは沿岸での素晴らしい自然光景だろうが。全国を行脚した儒学者・林春斎が「日本国事跡考」において、卓越した三つの景観として取り上げたのに始まったと。でもなぁと私は疑問におもったりもします。天橋立と松島は自然景観、宮島はそれプラス宗教施設と弘法大師が大きく関わってくる。
日本三大大仏、意外だが奈良東大寺の大仏さんは誰でも知ってるし、一度は観てみたいと誰しも思う。残りの二つは、関東圏に近い鎌倉大仏さん、そしてあまり知られていない神戸大仏さん。三大仏さんどれも素晴らしいけれど。そのどれよりもでかい大仏さんがおられたことはあまり知られていない。
時代って、そんなもん。
派手なことが大好きな太閤秀吉公が造った大仏がそれ。京都市東山区にある方広寺の大仏さん、天正14/1586年に秀吉が発願し、5年で完成させると大見得を切って造らせたが、できたのは9年後。ただ東大寺の大仏よりも大きい18メートルの木造漆塗りの仏像。
しかし、完成した翌年に慶長の大地震が発生。方広寺の全てが破壊されてしまう。太閤さんの子である秀頼が再興につとめ、慶長17/1612年に再び完成。高さ19メートルの巨大な大仏さん。
今の時代も残っていれば、四大仏になっていた。と言うより、この時代までの都であった三都・奈良、神戸、京都それぞれにあった大仏さんで三大仏なのだろう。その後鎌倉幕府で鎌倉大仏さんが加わって四大仏。
方広寺と聴いてピンときた人は歴史好きな人だろうが、そう徳川家康が文句をつけたのが釣鐘事件。「国家安康、君臣豊楽」と銘記されていた巨大釣鐘に、家康の文字を分断しているといちゃもん。民は「のろわれた方広寺」と。これがきっかけとなり豊臣氏滅亡へと家康が仕掛けていく。大坂冬の陣がはじまってしまう。
あろうことか、大仏さんはまたも寛文2/1662年の大地震で崩れ去ってしまう。50年間に二度の大地震にみまわれてしまった。その後も、再建された大仏さんだが不幸は続き、今度は雷による火事で焼失してしまう。
なぜ大仏を造ろうとしたのか。
人を不安にするものは何か? 地震、雷、火事、税を取り立てるオヤジ。そして疫病。それにより社会が不安定になり、心が荒ぶ、そしていざこざが起こる負の連鎖。
都に疫病が流行、その後に長屋王の変、藤原広嗣の乱が起こり、社会が不安定に。そんな世をどうにか明るい火を灯そうとした聖武天皇は 天平15/743年に廬舎那大仏造立の詔 を発せられる。
この世に生きるものすべての永遠の幸福と繁栄を与える大仏像を造らせたのだ。それが奈良の大仏さん。太閤さんの時代よりも一千年近くも前のお話。
天皇や貴族に華厳経を説いていた僧・良弁が諸国の国分寺の総本山として東大寺を建立し大仏を造立すること進言したのです。聖武天皇は、時の都であった滋賀県の紫香楽宮で「大仏造立の詔」を出しましたが、都が平城京にもどったことに伴い東大寺が造営されたのです。
一切万物を救済する仏が毘盧舎那仏/びるしゃなぶつでこの世に生きるものすべての永遠の幸福と繁栄を与える仏であると考えられていました。
とんでもない規模の国家事業のため、僧・行基さんが全国をまわって大仏造立の意味を説き、物資や人手を集めています。世界で当時こうした大事業を起こせる国はなかったのでは、と今では言われています。
銅による巨大構造物を造りだす技術もそうですし、その材料を集める資材力もそうです。記録では「材木の寄進51,590人、労働力1,665,071人、金銅の寄進372,075人、労働力514,900人。銅約241トン、練金4,187両1分4朱」。
奈良の大仏も何度か危機が。
奈良から京都に都が移っていた平安時代。僧兵たちが不満をぶちまけに京の都へと直訴、つまり反乱を起こすのですね。奈良東大寺も同じように直訴。それで時の権力者、平家政権と対立し南都の寺院勢力が焼き打ちに遭います。
治承4/1181年に東大寺は、二月堂、三月堂、転害門、正倉院以外の主要な伽藍は焼失してしまいます。南都焼討後、東大寺は平家政権に逆らった罰として、荘園所領を没収されます。
東大寺の再建を説いたのが僧・重源です。重源は精力的に全国を勧進にまわり、源頼朝の協力のもとで、大仏や諸堂の再建にあたります。
文治元/1185年に大仏開眼供養、5年後の建久元/1190年に大仏殿が完成します。何度でもよみがえらせると言うのが、日本の社会システムのやり方であるかもしれません。
江戸時代は野ざらしの大仏さん。
戦国時代、奈良は大きな兵火にさらされます。永禄10/1567年に大仏殿に陣を構えていた三好勢に、松永久秀の軍勢が夜襲を仕掛けて焼き払います。大仏も原型を留めないほどに溶け崩れます。
それから100年後、貞享元/1684年に僧・公慶が大仏の修理のために勧進を始めたことから、東大寺の復興事業が本格的にスタートします。
元禄4/1691年には大仏の修理は完了し、その翌年には大仏開眼供養が盛大に営まれました。ただまだ大仏さんを囲む大仏殿が再興されていません。ちなみに鎌倉大仏さんも以前は大仏殿で囲われていたのですが、大仏殿がなくなり裸のまんまなのですね。
大仏殿の再建にも公慶による勧進が続けられましたが、大仏再建よりさらに大きな費用がかかります。東大寺復興は江戸幕府主導の国家的大事業となりますが、資金が足りず大仏殿の規模は鎌倉時代よりも大幅に縮小されて、現在の規模になりました。
それでも世界最大の木造建築物ですが。東西 57.012m(初代は88m)、南北 50.480m、高さ 48.742m。東大寺の復興事業が完了したのは、公慶が復興を志してから約70年後のことでした。何度でも立ち上がる大仏さんが奈良にはいらっしゃるのです。日本人のあきらめない精神力は、こうした先人たちの業績をみてもわかりますね。
明治の廃仏毀釈でボロボロな仏像
慶応4/1868年に、明治政府は神祇官を再興、その後神仏判然(分離)令を出し、仏教と神道を区別して神道を重んずる方針を示します。
これをきっかけに全国的に廃仏毀釈の動きが広まり、仏像などは美術品として海外に売り飛ばされたりしました。文明開化をめざす急激な時代の変化の中、伝統美術は古めかしいものとして排除されます。
これでは日本人の精神が失われると痛感した岡倉天心は、政府に文化財の保護を訴えます。明治30/1897年には、文化財保護のための最初の法律として古社寺保存法が制定され、貴重な仏像の保存や修復を国が行うことになります。
東大寺大仏殿〒630-8587 奈良県奈良市雑司町406−1
開門/7時30分~17時30分
入館料/大人800円