楠公さんと愛される神社
神戸っ子なら楠公さんを知らない人はいない。智・仁・勇の三徳を備えた名将・楠木正成公のこと。吉田松陰、西郷隆盛、坂本龍馬、勝海舟はじめ幕末の志士から慕われ、明治維新への精神的原動力となったと言われています。湊川と言われたら、楠公さんを思い浮かべないと生粋の神戸っ子ではないと。
神戸で育ち学ぶとなぜか楠公さんのことはよく知ることになります。教科書ではあまり書かれていませんが、というよりも逆賊のような書かれ方をされている場合もあると聞いてます。国のために命を捧げた人を逆賊扱いするのはどうかとおもいますが、それはその時代の権力者の都合だけの話。
なぜこんなに愛されるのか
日本では負け戦も闘ってみなければ判らないという気があります。負けると分かっていても、戦うという心意気もあります。勝った負けたはときの運で、勝ったものが偉いわけでもないと一種軽蔑の念まで持ってみているのが私たち。
ましてやどこぞやの国のように、相手は降参しているのにどさくさ紛れに領土や奴隷を取ろうとする行為はゲノゲ、人さまがやる行為ではないと。不可侵条約で相手を油断させておいて、日本はもう降参しているのにも関わらず、北海道を取りにやってきたロシア軍。嘘つき約束破りは当たり前が世界常識なんでしょうね。
日本に攻めてきた外国人
教科書の嘘とまでは言いませんが、なぜか間違った方向へ導く文言。鎌倉時代、世界の覇権国家だったのはモンゴル。そのモンゴルが攻めてきたのが「元寇」、教科書には「二度にわたる神風で、モンゴルの軍船は沈み日本征服とはならなかった」と教えられます。
神風って? と思いますよね、それで先公にお尋ねすると「神風って台風だ」との説明を私は受けました。しかし本当にそうなんでしょうか? 二度も台風で船が全て転覆する季節にだけ日本に攻めてくるなんて、モンゴル人はそんなにあほうなんでしょうか?
大人になっても疑問は消えず、いろいろ調べて行くと鎌倉時代の武士たち凄まじい強さが浮き出てきます。つまり世界覇者であったモンゴル帝国軍を打ち負かしているのです。鎌倉時代に日本は公家の政治から武家政治へと転換していきます。それにはこのモンゴルが戦争を仕掛けてきた事件が発端とも言えます。
この戦争で日本は勝ったのですが、勝ってもモンゴルの領土を取った訳でも、また戦利品があった訳でもありません。当時の他国との戦争とはそんなもんだったんでしょう。つまりは鎌倉武士たちは命を懸けて戦ったのにもかかわらず、なんの恩賞ももらえなかった。タダ働き、いやそれ以上に船や武器を持ち出しての奉仕。確かに天皇の錦の御旗の元戦う訳ですから。
こうして溜まった不満を持つ武士たちを集めて決起するのが、日本の中での「変」と呼ばれるクーデターのような戦い。その始まりが足利氏による朝廷への反乱です。それを鎮めようとしたのが、忠臣楠木正成公。
足利氏の第一回目の朝廷への反乱は見事におさえつけたのですが、、
日本を守った男
日本という国の成り立ちは天皇の御存在があるから、勝ったから負けた者の金品を盗みその土地の民を奴隷にするなんて行為はなかった。天皇と公家のまつりごとから武家政権の時代に入ろうとしていた鎌倉時代、後醍醐天皇の勅命を受け、足利尊氏や幕府勢力に面と向かって戦ったのが楠木正成公。
延元1/1336年、足利軍との湊川の戦いで無念自刃。その後地元の人々によって、この地に葬られていた正成公の塚は大切に守られてきました。この周辺には源平の戦いで亡くなった方々の塚も、至る所にひっそりと守られています。
朝敵、逆賊という汚名を貼られた楠木正成
楠木正成は1559年に正親町/おおぎまち天皇によって赦免されるまで、なぜか朝敵、逆賊というレッテルを貼られてしまいます。これは勝った側が、敗軍に英雄を作らせないための策もあったのでしょう。和気清麻呂公、菅原道眞公と同じです。ただ彼らは民には慕われ、今は神社まであり、人が集う。
また戦後の今の教科書に楠木正成公が正しく評価されないのは「命を懸けて天皇のために尽くす」その美しさを認めない、戦争になる的な考えがあるのかなぁ、教科書にはあまり出てこない。
時代の風潮によって評価は翻弄された楠木正成。しかし彼の生き方には、なぜだか日本人は心寄せてしまう、だから今でも慕われているのでしょう。
自分の意思は、どんなことがあっても曲げない、貫く姿勢が共感を呼ぶんだろうなぁ。
月と日の昔を忍ぶみなと川 流れて清き菊のした水
坂本龍馬が湊川へ詣でた時にうたった歌です。菊の花の下に水が流れる、美しいデザインがあります。この菊水紋章は楠木正成公が戦旗として用いていた印。菊の御紋といえば、天皇家ゆかりです。正成公は後醍醐天皇からその功績として「菊紋」を下賜されたのです。つまり天皇家の菊の御紋を使用しても良いと。
しかし正成公は、あまりにも畏れ多いと菊の花を半分にしてその下のデザインを水を流した文様を考えたのです。この水が流れるデザインは地元神戸の『神戸新聞』」の題字デザインもこの文様から取られたものです。
菊水紋の水の流れを刀剣にしたのが「菊水刀」とよばれるカタナで、旧日本海軍の士官用軍刀として作刀された本鍛錬刀。靖国神社と湊川神社にこのカタナを作るための鍛刀場が設立されました。
現在の社殿は戦災によって焼失したものを昭和27/1952年に復興新築されたもので、社殿内の天井画が必見です。中央に大きな福田眉仙作の「大青龍」↑、棟方志功作の「運命」の版画など素晴らしい作品が並びます。
また江戸時代に入り、楠正成公を非常に崇敬された水戸の黄門さま・徳川光圀公によって立派なお墓が建立されました。
黄門さま直筆の「嗚呼忠臣楠子之墓」↓の墓碑は、国の重要文化財になっています。この書は素晴らしいと、書道家の方におききしたことがあります。
湊川神社
御祭神 楠木正成公
〒650-0015 兵庫県神戸市中央区多聞通3丁目1−1 開門/9時00分~17時00分