嗚呼忠臣楠子之墓@楠正成公の神戸湊川神社@兵庫神戸市

更新日:

楠正成公の像@湊川公園

なぜ皇居に楠木正成像があるのか

元寇に打ち勝った鎌倉武士たち。しかし戦に勝ってもなんの得にもならなかった、そんな不満が武士の間で起こり、やがて朝廷に対して反乱へとおよんだのです。台風の神風が二度も偶然きて、それで元・モンゴル軍は日本を攻めようとはしなかったなんて、嘘を教科書には書いてあります

楠正成公の像@湊川公園

楠正成公の像は湊川神社近くではなく、地下鉄湊川公園駅下車の湊川という地名の町にあります。
嗚呼忠臣楠子之墓がある湊川神社に参拝される場合は神戸市営地下鉄に乗って大倉山下車です。

台風の時期だけモンゴル軍は攻めてきたのですか? 神風が吹いたなんて、それ零戦で神風特攻していった若者たちを馬鹿にしてませんか。モンゴル軍と対等に戦った鎌倉武士をバカにしてませんかということです。彼らは私たちのため、のちの日本人のために戦ってくれたんですよ、何の損得も関係なく。この時だけでなく、日本海沿岸の町は他国からの侵略を受けていたのです。現在もです、朝鮮人による拉致事件など侵略行為ですからね。また朝鮮人による神社やお寺さんの宝物を盗む行為も横行しています。

楠公祈年祭

モンゴル軍を駆逐したのに鎌倉武士には何のトクにもならなかった。ほんとは日本が今あるのも強い鎌倉武士のおかげなんだけれど。こうして溜まった不満を持つ武士たちを集めて決起したのが足利氏による朝廷への反乱です。それを鎮めようとしたのが、忠臣楠正成公、永仁2/1294年〜延元元年・建武3/1336年7月4日。教科書には楠木正成公の話などほとんど出てこない、これが大人の事情という利権なんだろうね。今の先生も利権=お金のために教師をやってらっしゃるからね😊嗚呼忠臣楠子之墓@神戸湊川神社

足利尊氏挙兵失敗の後、九州へ落ち、兵を立て直していました。足利尊氏なんて、教科書では英雄のように書かれていますが、どうなんだろう。ただ元寇でお金、恩賞をもらえず疲弊していった武士のために戦った、といえば、まぁそれもいちりある。湊川神社,楠公さん.楠木正成,忠君楠子

労働組合が「どうしてこれほど働いているのに、生活が苦しいんダァ」という人たちを集めた、そうした困窮した鎌倉武士の叫びだを代弁したのが足利尊氏。ただ、それは日本を変革するクーデーター「変」でもある、その足利尊氏討伐に九州へと新田義貞が向かいますが旗色が悪く、苦戦。嗚呼忠臣楠子之墓@神戸湊川神社

損得で考えてはいない

それで楠正成公は後醍醐天皇を比叡山に避難させて京都へ足利尊氏をおびき寄せ兵糧攻めにする計画をたてた。神戸で戦うということの不利を楠正成は解っていた。それは三種の神器をもってしても安徳天皇を擁する平家軍が神戸で苦戦を強いられて、その地形がどれほど戦略上に重要かが彼はわかっていた。

湊川神社,楠公さん.楠木正成,忠君楠子

櫻井の別れ

 

しかし頭が良くて官僚にもなった方々は、ろくでなしでしたという話し。

菊水

菊水のマーク

しかし献じた策を天皇の側近たちに封じ込められ、足利尊氏に上洛を許してはいけない外で戦えと。「この上はさのみ意義を申すに及ばず」と楠正成公は頭の固い公家たちを説得するのは諦め、京都で手勢を集めましたが、その数楠正成軍700余りの兵。嗚呼忠臣楠子之墓@神戸湊川神社

さすが正成公もこの時ばかりは、今度が最期の戦になると察した。嫡子である子・楠木正行に「お前はもう十歳を過ぎている、楠一族みんなが死んでしまってはいけない。生き残ることが親孝行だと思いなさい」と説き伏せ、南河内へ帰えしたのです。嗚呼忠臣楠子之墓@神戸湊川神社

足利尊氏いざ京へ、七生滅賊

足利尊氏軍50万に対して、官軍は10分の一の5万。なぜ足利尊氏にくみする武士が多かったのか、それは元寇の恩賞をもらえず苦しい思いをしていた武士が多かったから。しかし、時の政府は知らぬ顔、いつの時代も同じです。公家や官僚たちが天皇の子である民のことを我が身のことのように思わなかった。それで足利尊氏が不満分子の武士たちを引き連れて決起したのです。

嗚呼忠臣楠子之墓@神戸湊川神社

嗚呼忠臣楠子之墓は湊川神社正門横から入ります

天皇に忠義に厚い少数であっても楠正成軍700騎の兵たちは強く、足利尊氏の弟・直義を打ち取る一歩手前まで行きます。弟の苦戦をみて尊氏軍が一気に攻め入ってくる、と同時に瀬戸内の海を利用して船団で正成の後ろに上陸して背後から攻め入る九州の細川定禅軍。挟み撃ち戦法を不覚にも食らったカタチの楠軍、これで足利軍は持ちこたえて勝ち得たんだろうなぁ。これが戦略、日本の戦いの真骨頂であり作戦で勝負の世界。

嗚呼忠臣楠子之墓@神戸湊川神社

メトロ神戸の地下道を上がったところ、湊川神社の大きな門とその横にある小さな門が嗚呼忠臣楠子之墓

楠正成公の背後から尊氏軍が攻めてきて、奮戦したものの、兵団はみるみる小さくなり楠軍70人ほどに成ったところで精魂尽き果て、切腹の場所を探すことに。正成公は矢で受けた傷と刀傷が身体に11ケ所もあり満身創痍。

精魂尽き果てた正成公は弟・正季/まさすえに「死後はどんな世界に生きたいか」と尋ねました。正季「七回でもこの世界に生まれ変わって、朝敵を討ち滅ぼしたい」と笑って答えたと。

嗚呼忠臣楠子之墓@神戸湊川神社

「嗚呼忠臣楠子之墓」の八字は、徳川光圀公自らの筆

弟の言葉を愉快そうに聴いていた正成公「今回の人生ではよくやった。それじゃあまた生まれ変わり、本分を達成しようじゃないか」と言い、差し違えた。この楠正季の言葉は『七生滅賊』という言葉に変わり、今も語り継がれています。これが神戸【湊川の戦い】

水戸黄門

墓標を建てられたのが、黄門さま。人間国宝の平櫛田中さんの作品

幕末の志士の尊崇を集めた楠公さん

多くの勤皇の志士たちが精神的支柱としたのが、楠正成公の墓標に書いてある言葉。日本に生きる人たちに愛情があるか、未来の日本人に対して恥じないか、この国を滅ぼそうとするものたちに対して守りきれるか、と。

湊川神社阪神大震災

1995年阪神淡路大震災で倒壊した鳥居と狛犬

京都や江戸に向かう西國街道が楠公さんの前の道路です。京や江戸へ向かう志士や、郷へ帰る志士たちがこぞって拝んだのが、この大楠公墓所です。楠公さん・湊川神社の門横にあります。時々見落とされる方がいらっしゃいます。JR神戸駅すぐの湊川神社には、地下道が通っていてメトロ神戸地下商店街をめざし北へ行き地上へ上がるとすぐ目の前がこの墓標です。湊川神社JR神戸駅前

この墓標を建てられたのが、水戸の黄門さま。徳川光圀公の家臣、助さんこと佐々宗淳/さっさむねきよに命じて、神戸の地に墓標を建てたのです。墓標に書かれている「嗚呼忠臣楠子之墓」の八字は、徳川光圀公自らの筆。嗚呼忠臣楠子之墓@神戸湊川神社

亀跌/きふ碑と呼ばれる水戸徳川家のお墓と同じ形式のお墓で、楠正成公がお亡くなりになった神戸の名石・御影石でできた四角い台座に、天皇家の京都の名石・白川石の亀跌、その上に楠正成公の故郷・大坂の名石・青和泉石でできた「嗚呼忠臣楠子之墓」の墓標。湊川神社龍の絵

身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置まし 大和魂

そう歌ったのが吉田松陰。西郷隆盛、高杉晋作、坂本龍馬、伊藤博文、勝海舟、木戸義孝、大久保利通、三条実美、真木保臣、、錚々たる志士たちが訪れ、仰ぎ祈った墓標。今ではその墓標の前に水戸光圀公の立像があります。人間国宝の平櫛田中さんの作品です。

墓標の拓本は、楠公さんの社務所で授けていただけます、二千円也。吉田松陰公はこの拓本を松下村塾に掲げて教育したと言われています。また同志社大学を創った新島襄先生も座右の銘にしていたと言われています。私が通った学校はなぜだか菊に流れ川のマークが校章で、そしてなぜだかこの文章を書き写せと書いた時はあまり理解できませんでしたが、今となってはその先生に感謝をしています。現在、楠木正成公と呼びますが、私は楠正成公と教えられましたね。『太平記』など古い書物では「楠正成」が正式名称となっています。「楠木」と書くと「くすのきき」と読めますよね。嗚呼忠臣楠子之墓@神戸湊川神社

墓標原文【忠孝著乎天下日月麗乎天天地無日月則晦蒙否塞人心廢忠孝則亂賊相尋乾坤反覆余聞楠公諱正成者忠勇節烈國士無雙蒐其行事不可概見大抵公之用兵審強弱之勢於幾先決成敗之機於呼吸知人善任體士推誠是以謀無不中而戰無不克誓心天地金石不渝不爲利囘不爲害怵故能興復王室還於舊都諺云前門拒狼後門進虎廟謨不臧元兇接踵構殺國儲傾移鐘簴功垂成而震主策雖善而弗庸自古未有元帥妒前庸臣專斷而大將能立功於外者卒之以身許國之死靡佗觀其臨終訓子從容就義託孤寄命言不及私自非精忠貫日能如是整而暇乎父子兄弟世篤忠貞節孝萃於一門盛矣哉至今王公大人以及里巷之士交口而誦説之不衰其必有大過人者惜乎載筆者無所考信不能發揚其盛美大德耳右故河攝泉三州守贈正三位近衛中將楠公贊明徴士舜水朱之瑜字魯璵之所撰勒代碑文以垂不朽】

忠孝は天下についたものだから、改めて声高に忠孝を説く必要はない。忠孝をつくすことは人間にとって当然なことであり、自然なことなのである。それは太陽と月が天について万物を照らし育てているのと同様だからである。それ故、天地に太陽と月がなければ、真っ暗で動きのとれないふさがった状態になり、人の心から忠孝を廃すれば、国に害を与える悪い家臣が相次いで起こり、国家や世界は遂には転覆してしまうのである。湊川神社

自分は聞いている。楠正成という人は、忠実かつ勇敢で、国中で比べる者がない程のすぐれた人物であると。しかしその楠公の行った偉大な事柄を集めてみても、その多くは埋もれて判明しないのである。その楠公の用兵の方法は、敵・味方の強弱の状態を戦いの前に細かく調べ、勝敗は一瞬で決するという。まさに戦いの妙にたけていたのである。それに人物の性格や能力を知って処遇し、有能な人を任用し誠意をもって事にあたらせた。そのために、計略はことごとく的中し、戦争は必ず勝利を得ることが出来たのである。湊川神社

また、楠公は天地神明に誓って行動し、金や石の硬さと同じく心変わりすることがなかった。利益によっても左右されず、威力によって脅かしたり恐れて避けようともしなかった。このことから、皇室を復興して後醍醐天皇を京都にお還しすることが出来たのである。しかし「前門の虎後門の狼」といふことわざがある。つまり、前に北条高時を亡ぼしたが、それが足利尊氏の横暴を招くことにもなったのである。この大切な時に、朝廷の政治が不適切であったために悪人が次々に起こり、遂には皇太子である護良親王を無実の罪で葬るという大逆を行ったのである。

一方、楠公にあってはその功績があまりに大きかったことが原因で、後醍醐天皇に不安の気持ちを抱かせたのである。このような場合には、例えその献策が良くても採用されぬものである。昔から一番偉い人が、部下の功を妬んで妨害し、また愚臣が勝手に権力を振ふ状態では、どんな有能な武将でも外で勝利を得るといふことはありえないのである。

とどのつまりは、自分の一身を国に捧げ、わが身を国家のために犠牲にすること以外はなさらなかった。死を覚悟しても、ゆったりと落ち着いて大義に就き、一家の私事に及ぶことなく、すべて国のことのみであった。その混じり気のない忠義が太陽にまで到達するような人でなければ、討死することがわかっていながらも、整然として取り乱さず動じない態度を保つことは出来ないはずである。

これは楠公だけでなく、親も子も兄弟も同じである。 誠に粋なことである。昔から今日に至るまで、上は皇室から身分高き人々、下は一般庶民まで、 皆口々に楠公の事を賞讃するところからみると、これは、楠公とその一門が、人々よりすぐれていたからであろう。しかるに残念な事は、記録文書がなく証拠によって確かめる確実なものがないために、楠公のこの上もなく美しく立派な行動と偉大な徳を褒め称えることが出来ないと言うことである。

右はもとの河内、摂津、 和泉三国の太守、贈正三位 近衛の中将楠公の賛である。これは明の学徳高き人で号は舜水、名は之喩、字は魯嶼の撰文である。それ碑文に代用して石に刻み、後世に残す。嗚呼忠臣楠子之墓@神戸湊川神社

嗚呼忠臣楠子之墓 〒650-0015 兵庫県神戸市中央区多聞通3丁目1−1湊川神社 開門/6時00分~18時00分

楠木正成公の像は湊川公園にあります、湊川神社からは徒歩30分、湊川神社のある神戸市営地下鉄「大倉山駅」から電車で一駅あります。最寄駅は「湊川公園駅」

楠正成公の像@湊川公園

楠正成公の像は湊川神社近くではなく、地下鉄湊川公園駅下車の湊川という地名の町にあります。
嗚呼忠臣楠子之墓がある湊川神社に参拝される場合は神戸市営地下鉄に乗って大倉山下車です。

-
-, , , , ,

Copyright© 旅に出ようGo to JAPAN , 2024 All Rights Reserved Powered by STINGER.