日本の歴史舞台、南北朝時代の都。キテレツ吉野水分神社@奈良県吉野町Travel toNara

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本居宣長、豊臣秀頼をうんだ吉野水分神社

日本の歴史舞台、南北朝時代の都吉野

吉野水分神社は水の配分を司る水分神(みくまりのかみ)を主祭神とし、その表現が御子守(みこもり)と転じて子宝や安産の神と言われています。日本一の桜の名所である吉野山の山の上にあります。ホントに山なので吉野山を訪れる時はハイキングスタイルがベストです。

本居宣長、豊臣秀頼をうんだ吉野水分神社

神殿は国の重要文化財で、春日造りの建築様式。

吉野山花は見ぬとも水分の神のみまへをおうがむがよさ

桜のシーズンは吉野山への道路は閉鎖されたりしますので、歩いて登るか、山行き臨時専用のバスに乗るかしかありません。マイカーでの春の吉野山はまず不可能です。吉野山へのアクセスには近鉄しかありません。大阪・天王寺の阿部野橋駅から吉野行きの特急か急行で1時間半。関西人でも阿部野橋駅を使うのは、少し戸惑います。阪神電車で行く場合なら、西九条でJR乗り換え環状線で天王寺で、近鉄に乗り換え。

近鉄吉野駅からは吉野大峯ケーブル自動車のロープウェイに乗って吉野山まで。

人里離れた山奥の里でありながら、一度は訪れたい吉野山。桜の文化を創り出したのがこの地とも言えます。ソメイヨシノ桜のヨシノはもちろんここ「吉野」から名付けられました。ここ吉野山を訪れるのにベストは、春の桜のシーズンと秋の紅葉シーズン。ぜひあなたも訪れてみてください。本居宣長、豊臣秀頼をうんだ吉野水分神社

本居宣長、豊臣秀頼をうんだ吉野水分神社

日本のお花見文化を創り出したともいえる武将・豊臣秀吉。桜が好きで、お花見を京都でするためにわざわざここ吉野山から山桜を醍醐寺に植えたほど。その太閤さんが後継の男の子をと祈願した神社がここ。太閤秀吉は1605年にこの神社を再建したと言われています。

本居宣長、豊臣秀頼をうんだ吉野水分神社

幣殿に置かれている八角八棟造の神輿は豊臣秀頼が寄進したおみこし

江戸時代には三重県松坂市の商人が子を授かるようにと吉野水分神社に祈願し、無事生まれた男の子。のちに医師として『源氏物語』や『日本書紀』の研究者として名をなしたのが本居宣長。

子供が欲しいと思うのは誰しも、そしてその子のために乳が十分出るように、そんな願いを託したのが吉野山のこの地だったのでしょう。それが証拠に、腹帯やおっぱいの形をした縫い物などが奉納されています。本居宣長、豊臣秀頼をうんだ吉野水分神社

神のおつかい。不苦労、福老

吉野水分神社は不思議な神社です。そんなに大きさも感じないのですが、不思議な気がするのです。神社の作りも、熊野三山の神社のような。これはこの吉野の地が山岳信仰の場所であることからか、山を登ってきた人をほっとひと息させるような包み込む雰囲気がある神社です。

この神社の人気キャラが木彫りのフクロウ。縁起の良いフクロウですから、お賽銭ももらっているようです。本居宣長、豊臣秀頼をうんだ吉野水分神社

さすが吉野山の桜かな

吉野水分神社は神社の中の中庭のような境内に立派なしだれ桜が咲きます。吉野の山に咲く数々の山桜もステキなのですが、ここのしだれ桜はこれ1本だけで人を魅了する力があります。

山に登ってきた、そのご褒美のような、その姿に感激しない人はいないでしょう。

吉野水分神社〒639-3115 奈良県吉野郡吉野町大字吉野山1612
由緒/創祀は不明
文武天皇2年(698年4月29日芳野水分峰神に馬を奉り祈雨
大同元/806年神封一戸『新抄格勅符抄』
承和7/840年従五位下『続日本後記』
貞観元/859年正月27日正五位下
貞観元/859年9月8日「名次神等遣使奉幣。爲嵐雨祈焉」
延元2年/1337年正月10日正二位
文禄3年/1594年豊太閤吉野花見に当社に参詣
慶長9年/1604年子秀頼によつて本社殿を大改築
明治の廃仏毀釈によつて社僧廃止、式内村社となる

本居宣長、豊臣秀頼をうんだ吉野水分神社

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