補陀洛や岸打つ波は三熊野の那智山青岸渡寺@和歌山那智勝浦町

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三熊野の那智山青岸渡寺

補陀洛や岸打つ波は三熊野の 那智のお山にひびく滝つ瀬

神社と寺院が隣接して建つという、熊野三山でもっとも神仏習合時代の名残りを残している那智。那智大社と青岸渡寺が並んでいます。那智山青岸渡寺は古くは【如意輪堂】と呼ばれ、那智権現は最盛期には7寺36坊を有し、熊野修験の一大本拠地となっていました。

明治の神仏分離令は、もともと一体であった神仏習合の霊地に、神か仏かのどちらか片方を選択するように命じました。本宮も新宮も神を選び、仏を捨てて仏寺院は取り壊されました。ここ那智でも、神を選び、廃仏毀釈の愚行をしたのです。いくつもの仏寺や坊舎が取り壊されたのです。その中には現存していれば国宝級の寺院もあったことでしょう。これは明治時代のお城の撃ち壊しにも言えることです。

忘己利多

如意輪堂は、西国三十三所霊場の第一番札所でもあり、さすがに取り壊しはされませんでした。仏像仏具類は那智の浜にほど近い補陀洛山寺などに移され、空堂とされました。しかし、その後、山内の人々の願により明治7/1874年に神社側から独立。【青岸渡寺】と名付け、天台宗の一寺として再興されています。

平安時代末期、「末法」の時代に入るとされました。時の権力は貴族から武士への移行期で、朝鮮半島からの領土侵略や彼らがもたらした疫病の蔓延、また火山の噴火や地震が相次いで起こっていた時。いつの世も、天変地異や権力の移行による不安定な時代です。こうした中、庶民の間では阿弥陀如来を教主とした浄土信仰が高まります。その流行は天皇や貴族にまで及び、人々は現世の不安を少しでも和らげようと来世極楽浄土での救いを求めて、熊野三山に参詣するようになります。

天正18/1590年如意輪堂再建の際、豊臣秀吉公より寄進された日本一の大鰐口。直径1.4m、重量450㎏。

当時は、いわゆる"神仏混交"の時代。那智は観音菩薩本宮の本地仏は阿弥陀如来新宮は薬師如来。人々は阿弥陀如来に来世、薬師如来と観音菩薩にこの世での願いを託そうとし、その様子が蟻の熊野詣でとまで言われたのです。

青岸渡寺の現在の本堂は、織田信長の焼き討ちにあったのを豊臣秀吉(1536~11598)が1590年に再建した桃山様式の建築で、南紀最古の建築物です。重要文化財に指定されています。戦国武将が寺を焼き討ちにするのにはわけがあります。当時のお寺さんは戦国武将以上の領地を有しているものも少なくなく、それを守るために兵士を雇っていました。お寺の僧侶が兵士だったこともあります。その例が、牛若丸と対決した武蔵坊弁慶です。武蔵坊というのはお寺の名前です。お寺さんは戦国武将の手助けもして、源氏側についたり、平家側についたりしていたのですね。ですから敵方についたお寺さんは、織田家にとっては敵ということ、焼き討ちの目にアウト。

那智山青岸渡寺〒649-5301 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字那智山8

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