熊野古道は日本人の旅の原点、祈りの道@和歌山三重

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熊野古道

「信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず」それがかみ

東京に住んでいる人は日本の山がどこも険しく海に迫っているなんてあまり思わない。紀州南紀は山が険しく、だからこそ修行をしたのだろう。日本人なら誰でも知っている弘法大師さんの高野山。その手前の葛城山から大峰山、そして「熊野三千六百峰」に続く山岳宗教地帯はどこに行ってもすごいパワーを感じる。熊野古道

私はたまたま、仕事でこの地域によく行くことになり、その行き帰りに色々と立ち寄ってみたのです。その中にはフシギな体験もありました。だれもそんな事信じてくれないのですが。知らない間に天川村に行き着き、そしてお参りしたこともあります。そしてその話をすると「お導きだね。あそこは学芸の神さまで、君にはきっと良いことがあるよ」と先方に言われたのです。熊野古道

神仏集合の熊野は極楽浄土

熊野には古くから本宮、新宮、那智の地に、それぞれに熊野坐神熊野速玉神熊野牟須美神が鎮座、つまり別々に各オヤシロに住まわれてた。それが平安時代に一体と見なされて各社ともこの三神を奉るようになり、今も言われている熊野三山、熊野三所権現というようになったそうです。また平安時代は令和の時代と同じように疫病が流行り不穏な時代で、人々は平穏なこころを求めて熊野へもう出たのです。それが極楽浄土思想に繋がったのですね。熊野古道

「蟻の熊野詣で」と教科書にまで書かれていた熊野信仰が大流行した理由は、ただ庶民感覚として平穏な心持ちを求めた結果なんでしょうね。あまりのも過酷な現世に嫌気がさし、誰しもが極楽浄土へと願う気持ち。その極楽が熊野にあるんだと、そう感じた庶民から公家や武士たちがこぞって熊野に詣でた。熊野古道

天皇の熊野詣で

その流行は庶民だけでなく天皇家にも伝播します。天皇家の熊野詣では10世紀初めの貞観9/867年〜承平元/861年宇多(ウダ)天皇によるものが最初と言われています。そのあとは国家的行事として大治2/1127年〜建久3/1192年後白河天皇はほぼ1年に1回のペースで34年間、治承4/1180〜延応2/1239年後鳥羽天皇は10か月に1回のペースで28回と凄まじいくらい信仰されたのです。

また平家一族での自分の立ち位置に、きっと悩んだんであろう平維盛(たいらのこれもり)は源氏との合戦場一ノ谷から逃走し、高野山で修行後に熊野三山へ、そして観音浄土を目指し補陀落渡海したのですから、日本人は最期には熊野に救いを求めたのです。救いを求めて自死するまでに至るわけですから。熊野古道

いく度も、いく旅も。

この地域を何度も旅しておもうのですが、ここを歩いて旅するのは難儀なことです。クルマや列車などの飛び道具を使った私でも大変な目にあったこともあります。紀伊半島は台風上陸地です、つまり台風の通り道。日本で一番雨が降るのもここ紀伊半島尾鷲です。台風通過時にたまたま新宮市に居て、本来なら串本から白浜へと帰るつもりが、大波で国道も電車もストップ。仕方なく名古屋方面に向かい、相当迂回して関西へ帰った記憶があります。

奥深い、自然と真っ向勝負の紀伊半島の【熊野古道】と現在呼ばれている道を辿って、お参りする。これは凄まじい体力と気力の必要なことだと便利な時代の今でも感じます。それを病の身の上でする人も多かったと聞きますから、驚きです。その事で体にとっては張り合いができ、かえって熊野詣でというその行動で身体が蘇るんじゃないかとさえ思います。またこの地は薬草などが豊富で、それを使った薬なども数多くあります。熊野古道

日本人の庶民の旅、流行の原点

江戸時代は人は土地を離れられない。信仰心の篤さを「伊勢に七度」「熊野へ三度」「金比羅山へ」と表現するように、庶民でも伊勢、熊野、金刀比羅に旅することは許されていた。ただお金が相当かかる旅を、庶民が簡単にできるわけもなく、そのために産まれたのが【講】と呼ばれる互助会のようなシステム。みんなでお金を出し合い、そしてくじ引きで当たった人が講の代表としてお参りをする。

日本人のDNAの中には、そんな旅をするモードが遺伝として組み込まれているんじゃあないかなぁ。さぁ旅に出よう。

大門坂〒649-5301 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町熊野古道

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